脳死は人の死か? 臓器移植における医療倫理
脳死とは?
あたりまえだが脳死は人の死ではない。だからわざわざ脳死という。
脳死の人の心臓は動き、血液は循環し、体温は維持され、体の細胞は生きている。
尿は排泄され栄養が必要な状態でもある。
奇跡的に脳が回復すれば、生き返る。
人とは何か?という定義にもよるが、脳死は人の死とはいえない。
だから特別な言い方 ~ 脳死 ~ という言葉で表現される。
一方、心停止(心臓死)は人の死である。
心臓が停止すれば、体の細胞は死滅する。
その後、たとえ心臓が回復してももう、生き返ることはない。
と、いうことから、心停止(心臓死)は人の死に直結しているといっていいだろう。
しかしーーー
脳死は人の死ではない。あくまで脳死である。本当の意味での人の死ではない。
では、なぜ、脳死(という言葉)が必要なのか?
極論すると
臓器移植のため
である。
脳死は、臓器移植のために「判定」される、便宜上の死である。
移植医が殺人罪に問われないために・・・
いずれ臓器移植が不要になれば脳死の判定も不要になり、人々の脳死への関心も薄れていくだろう。
臓器移植とは・・・
すばらしい医療技術に支えられた優れた治療である。
しかし、臓器移植を究極の治療とよぶことはできない。
それどころか、もしかしたら、
人として許されない行為であるかもしれない。
後世の判断に任せるしかない。
しかし、
移植医は、今
たとえ
臓器移植が、人として許されない行為であるとしても
一時的なあいだ、許して欲しいという気持ちで
臓器移植をおこなっている、といえるのだ。
患者を助けるために。
臓器移植は、
人工臓器、再生医療が完成するまでの、
期限付きで認められる治療と考えたい。
臓器移植は、
臓器を他人の体で生存させるという治療でもない。
臓器移植は、いわば人工臓器、再生医療が完成するまでの間、しかたなく実施される治療である。
そのため脳死を判定し、移植医を殺人罪から守るのだ・・・
再生医療が完成した未来においては、臓器移植の歴史は過去の話として語られるであろう。
そして、
再生医療の完成をもって、脳死の判定は不要になる。
そういう未来になってほしい。
再生医療の発展をとめてはいけない。
ところが一方で・・・(ここからが本題ともいえる)
臓器移植とは無関係に診断される"脳死"がある。
臓器移植のために「判定」される脳死ではなく、臨床的に「診断」される"脳死"である。
この"脳死"、マスコミにも語られることはないが・・・
実は。
臨床の現場では、ずっと前から、こっちの"脳死"のほうがはるかに難しい問題であった。
しかし、誰にも注目されることはなかった。
その"脳死"の問題とは?
「生きてしまう」ことである。いつまでも。
昔はこんなことはなかった。"脳死"になると、間もなく心臓死を迎えていた。
しかし、医学・医療の発展とともに"脳死"と心臓死の距離がどんどん離れていったのである。
場合によっては"脳死"のまま何年も生存してしまう。
一日の入院治療が数十万~数百万円もするアメリカで最初に問題になった。
医療費が安い日本でも問題になった。
最初は、命だけは助かった!と喜んでいた家族も、少しずつ面会に来なくなり、離れていく。
結局、
"脳死"の患者にいつまで治療を継続するか?という問題である。
いつ治療をやめるか?は、患者の自己決定権にしたがって判断されるべきであろう。
患者の自己決定権は"脳死"の診断にかかわらず、すべての患者に認められる権利である。
"脳死"の患者にも自己決定権は、当然、存在する。
語ることのない"脳死"患者の意思。
どう判断すればいいのか?
この問題は、医の領域ではなく、法の領域である。
欧米ではすでに"脳死"患者の意思決定
という難しい命題に対して法律的な手順がはっきりと確立されている。
なるほど意識がない患者の意志はそうやって判断するのか!
と感心させられる。
しかし、日本ではまだスタート地点にも立っていない・・・
(2014年12月)
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