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【皇統】日本版キングダム

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日本王朝(キングダム)のはじまりは、神話上、紀元前700年ごろ(今から約2600年前)ということになっていますが

実際には

今から約1600年前 = 西暦390年(4世紀後半)ごろ

はないかと思われます。

いずれにしても日本王朝は、現存する世界最古の王朝(キングダム)です(2位はデンマークの約1000年)。

しかし順風満帆だったというわけではありません。

むしろ波乱に満ちています。

 

なんと、西暦500年ごろ、すでに日本王朝は皇統断絶の危機に瀕しています。

武烈天皇(第25代)に継承者がいなかったのです。

下記皇統図をご覧ください。女性は赤、男性を黒で表しています。

武烈天皇(第25代)に男子が生まれなかったばかりか、数世代さかのぼっても皇統を継承できる男性はいませんでした。

当時、この危機をどうやって乗り越えたかというと・・・

武烈天皇(第25代)から10世代もさかのぼり、なんと応神天皇(第15代)の血統を継ぐ継体天皇(応神天皇5世)を越前(福井)にみつけ、やっとのことで都(奈良)へ迎え入れたらしいのです。

 

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応神天皇と継体天皇のあいだは男系皇統と言われていますが、誰からの系統か?など詳細な記録は残されていません(ないことはないのですが・・・記述があいまいです)。

この種の記録は争いの火種になりますから意識的に記録をあいまいにしたのかもしれません。

応神天皇の血統であればとりあえずOKだったと思われます。

驚くのは、この受け入れにかかった年月です。

記録によると、継体天皇(第26代、応神天皇5世)を越前(福井)から都(奈良)に迎えるのに19年もかかっています。

受け入れ側にも派閥争いなど大変な確執があったのでしょう。

いずれにせよ、この継体天皇(第26代)を支えて勢力をのばしたのが大伴氏(おおともし)と物部氏(もののべし)です。

大伴氏(おおともし)と物部氏(もののべし) のように天皇に仕える家系(豪族)を氏族といいます。

しかし!

継体天皇(第26代)が崩御すると(クーデターによる暗殺説あり)、その後、皇統はまっ2つに分裂。

同時に2人の天皇が存在するという異常事態に陥りました(二朝併立)。

諸説ありますが、安閑天皇(第27代)~宣化天皇(第28代)の皇統と、欽明天皇(第29代)の在位期間が重複しているのです。

すざましい権力抗争があったはずです。

天皇に仕える大伴氏と物部氏も激しく対立したようです。

二朝併立は、宣化天皇(第28代)の崩御後、欽明天皇(第29代)によって統一、解消されましたが、その詳細な経緯は不明です。

このとき欽明天皇(第29代)を支えて勢力をのばしたのが物部氏です。一方、物部氏と対立した大伴氏は滅びたようです。

また、この争いに乗じ頭角をあらわしたのが蘇我氏(そがし)です。

このころ朝鮮半島では、日本とつながりが深かった任那(伽耶)とその同盟関係にあった百済が新羅に侵攻され、日本は援軍を派遣しますが、ついに任那(伽耶)は滅ぼされてしまいます。

そのとき援軍を送ったお礼として、百済(の聖明王)から日本へ仏教が伝えられました。

仏教は人々の争いや不満・不安を抑える教えとして伝わりました。

以後、天皇に仕える氏族らが仏教派(蘇我氏)vs 神道派(物部氏)にわかれて対立するようになります。

欽明天皇(第29代)は、神道を重んじながらも仏教にも深い理解を示し、いったんは仏教を受け入れようとしました。

しかし、欽明天皇(第29代)を継いだ敏達天皇(第30代、神道派)は仏教を禁止しました。

仏教の普及とともに天変地異や災いが増えたためです。

このころ隋が370年ぶりに中国を統一します。その統治には仏教の精神が利用されました。

敏達天皇(第30代、神道派)を継いだ用明天皇(第31代、聖徳太子の父)は、自身が病弱であったことから、仏教に深く傾倒します。

用明天皇(第31代、聖徳太子の父)の母が仏教派蘇我氏)であったことも仏教を重んじた理由でしょう。

用明天皇(第31代、聖徳太子の父)が即位後わずか2年で崩御すると・・・

皇位継承争いが勃発します。崇峻天皇と崇峻天皇の兄の間の争いです。

蘇我氏(仏教派)は崇峻天皇を支持し、物部氏(神道派)は崇峻天皇の兄を支持しました。

この争いは、蘇我氏(仏教派)が勝利し、崇峻天皇(第32代)が皇位につきます。

このとき崇峻天皇の兄、および物部氏(神道派)は滅びてしまいます。

崇峻天皇(第32代)は、しかし、その後、自分の力を誇示しようとして朝鮮出兵(任那の復興)を計画。出兵に反対する蘇我氏と対立するようになります。

ある人の支持を受けてリーダーとなった人が、後にその支持者と対立するのはよくある話です。

その結果、崇峻天皇(第32代)は蘇我馬子(蘇我氏一代目)に殺害されてしまいます。

日本史史上唯一といえる、部下による天皇殺害ですが、記録によると、このことによって蘇我馬子(蘇我氏一代目)が咎められた様子はまったくありません。当時の蘇我氏はそれほどまでに強大だったのでしょうか。朝廷内ですでに合意の上での暗殺だったのでしょうか?

このとき次の皇位継承者は

敏達天皇の皇子(押坂彦人大兄皇子、年齢不詳、非蘇我氏系)

敏達天皇と推古天皇の皇子(竹田皇子、年齢不詳、蘇我氏系)

用明天皇の皇子(聖徳太子、蘇我氏系、19歳)

の3人がいたようですが、このあたり、記録があやふやでよくわかりません。

この中で稀代の天才と目されていたのが、あの有名な聖徳太子(用明天皇の皇子、蘇我氏系、19歳)です。

しかし・・・

聖徳太子(用明天皇の皇子、蘇我氏系、19歳)は、当時、天皇にはまだ若すぎるとされ、蘇我馬子(蘇我氏一代目)が推したのは、敏達天皇の皇后である推古天皇(初の女性天皇、第33代、40歳)でした。

推古天皇(初の女性天皇、第33代、40歳)は用明天皇(第31代、推古天皇の兄)、崇峻天皇(第32代、推古天皇の弟)と、先代2代の天皇に仕えた政治のベテランでもありました。

推古天皇は蘇我馬子(蘇我氏一代目)の姪っ子でもあり(女性でもあり)扱いやすかったのでは?とも言われています。

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推古天皇(第33代、40歳)は、敏達天皇との間に生まれた皇子(竹田皇子、年齢不詳、蘇我氏系)に皇位を継承するつもりで、それまでの中継ぎのつもりで即位したのかもしれません。しかし、推古天皇の皇子(竹田皇子、年齢不詳、蘇我氏系)は推古天皇即位と前後して逝去してしまったようです。

いずれにしろ、こうして推古天皇(第33代、40歳)は日本初の女性天皇となりました。

しかし、蘇我氏の言いなりにはなりませんでした。

推古天皇(第33代、40歳)は、用明天皇の皇子(聖徳太子、蘇我氏系、19歳)を日本初の摂政に任じたのです。

摂政とは、天皇が女性、こども、病気であるときに、天皇にかわって政務をとりしきる役です。天皇の決定をも覆すことができる役職です。

聖徳太子は実際、頭脳明晰で優秀だったようです。その頃、中国を370年ぶりに統一した隋が民衆の心をまとめ、皇帝の権威を高める強力な統治ツールとして仏教を最大限に利用していることに注目し、当時としては最高に難しい学問(哲学概念)であった仏教を自ら学び、その普及を推進しました。

推古天皇は、日本初の寺院、飛鳥寺を建設しました。

聖徳太子は摂政として推古天皇を支えつつ、仏教法典を編纂し、法隆寺を建設しました。

仏教は人々の争いや不満を抑える哲学として、治世的に非常に有用でした。

この聖徳太子の業績で何よりも特筆すべきは、日本ではじめて憲法と冠位を制定し、天皇の下に行政府をおく「天皇中心国家」の基礎を築いたことです。

聖徳太子は、遣隋使を中国に派遣しましたが、その理由は隋から様々なことを学ぶだけでなく、成長した日本を国家として認めさせる、一種の外交戦略でもあったと思われます。

このころ隋が滅ぼされ唐が中国を統一します。遣隋使は遣唐使となりました。

聖徳太子には外交力やカリスマもあり、中国の皇帝からも一目置かれる存在でした。

しかし聖徳太子(48歳)は推古天皇の在位中に逝去してしまい、天皇にはなれませんでした(このころは生前譲位は認められていませんでした)。

つづいて推古天皇(74歳)も崩御し、その後は

聖徳太子の皇子(山背大兄王、蘇我氏系)を推す皇子派

敏達天皇の孫(押坂彦人大兄皇子の子)にあたる舒明天皇(田村皇子、非蘇我氏系)を推す蘇我蝦夷(蘇我氏二代目)

の間で皇統継続争いになりました。

この争いには蘇我蝦夷(蘇我氏二代目)が勝利し、舒明天皇(第34代、36歳)が即位します。

なぜ蘇我蝦夷(蘇我氏二代目)が非蘇我氏系の舒明天皇(第34代)を支持したのかはよくわかっていません。推古天皇の意志であったという説や、蘇我蝦夷(蘇我氏二代目)の政治的バランス感覚によるという説があります。

蘇我氏の繁栄のためには、聖徳太子のような優秀すぎる血統は好ましくなかったのかもしれません。実際、蘇我馬子(蘇我氏一代目)は聖徳太子によって政治への干渉を妨げられていました。蘇我氏が聖徳太子の血筋を警戒していたとしても不思議ではありません。

舒明天皇が崩御すると、蘇我入鹿(蘇我氏三代目)は、聖徳太子の皇子(山背大兄王、蘇我氏系)ではなく、皇極天皇(第35代、女性、48歳、非蘇我氏系)を擁立して力をのばします。

しかし、このころになると、聖徳太子の遺志を受け継いで、中国(隋はすでに滅び唐の時代になっている)から国家のあり方を学んだ使節団が続々と帰国し、聖徳太子が理想とした天皇を中心とする国家を完成させようとする機運が高まっていました。聖徳太子の人望は、権力をわがものにしたい蘇我入鹿(蘇我氏三代目)にとって都合の悪いものであったかもしれません。

このころ、皇極天皇(第35代)に継ぐ皇位継承者には

舒明天皇の皇子(古人大兄皇子、蘇我氏系)

聖徳太子の皇子(山背大兄王、蘇我氏系)

舒明天皇と皇極天皇の皇子である天智天皇(第38代、中大兄皇子、非蘇我氏系)

の3人がいました。朝廷内で次期天皇として最も人望があつかったのは、聖徳太子の皇子(山背大兄王、蘇我氏系)でした。

ところが、蘇我入鹿(蘇我氏三代目)が推していたのは、自分のいうことをよくきく舒明天皇の皇子(古人大兄皇子、蘇我氏系)だったのです。

そこで、蘇我入鹿(蘇我氏三代目)は、聖徳太子の皇子(山背大兄王、蘇我氏系)を殺害してしまいます。ここに聖徳太子の血統は途絶えてしまいました。

この時、みずからの身の危険を察知した天智天皇(第38代、中大兄皇子、非蘇我氏系、19歳)は、中臣鎌足(藤原氏の祖)と共謀し、先手をうって蘇我入鹿(蘇我氏三代目)を殺害します。

その後、蘇我蝦夷(蘇我氏二代目)をも自害に追いやり、ここでついに蘇我氏は滅びました。

蘇我氏による後ろ盾を失った舒明天皇の皇子(古人大兄皇子、蘇我氏系)は皇位継承を拒否、吉野に逃れますが、その後、謀反の疑いをかけられ、滅ぼされました。

この事件の後、皇極天皇(第35代、第37代斉明天皇、女性、天智天皇の母、51歳)は退位します。

天智天皇(第38代、中大兄皇子、非蘇我氏系)は、この事件が自らの皇位目的(クーデター)ではないことを示すため、皇極天皇(第35代、第37代斉明天皇、女性、天智天皇の母)からの皇位継承を拒否します。その結果、皇位は孝徳天皇(第36代、50歳)に継承されます。

この皇位継承は、日本史史上初の生前譲位となりました。

このころ、中国では唐が隋を亡ぼして新しく中国を統一し、律令を基本とした中央集権の支配体制を整え、次第に朝鮮半島へと勢力を広げていました。

孝徳天皇(第36代)は、中国の唐と新羅に攻められた朝鮮半島の百済から助けを求められ、百済に援軍を送ります(白村江の戦い)。しかし百済は敗戦し、ついに滅亡してしまいます。

このときはじめて九州福岡に防衛拠点としての大宰府が設置されます。

その後、孝徳天皇(第36代、58歳)は崩御しましたが、天智天皇(第38代、中大兄皇子、28歳)は、またも天皇即位を固辞します。

その結果、皇位を継承したのは皇極天皇(第35代、第37代斉明天皇、女性、天智天皇の母、61歳)です。皇極天皇は二度目の即位であり、これは日本史上初の重祚です。

重祚により皇極天皇は以後、斉明天皇と名のります。

その後、斉明天皇(第37代、第35代皇極天皇、女性、天智天皇の母、67歳)が崩御すると、ようやく天智天皇(第38代、中大兄皇子、42歳)が即位します。

天智天皇(第38代、中大兄皇子)は、孝徳天皇(第36代)の時代からすでに聖徳太子が理想とした天皇を中心とする国家の立ち上げにとりかかっていました。

しかし氏族らの私有地・私有民の没収は、なかなかうまくいきませんでした。

また、天智天皇(第38代、中大兄皇子)は、白村江の戦いで困窮した財政を立て直すことができず、人民の不満を買いました。

天智天皇(第38代、中大兄皇子)の後継者は、もともとは弟である天武天皇(第40代、大海人皇子)の予定でしたが、天智天皇(第38代、中大兄皇子、22歳)に弘文天皇(第39代、大友皇子)が生まれると、天智天皇(第38代、中大兄皇子)は弘文天皇(第39代、大友皇子)を皇太子にしてしまいます。その当時、天武天皇(第40代、大海人皇子、17歳)は潔く身を引いていました。

ところが、天智天皇(第38代、中大兄皇子、46歳)が崩御すると、弘文天皇(第39代、大友皇子、24歳)は天武天皇(第40代、大海人皇子、41歳)にクーデターの意あり?として攻撃を仕掛けます。

こうして天武天皇(第40代、大海人皇子)を支持する派(こちらが天皇に対抗する賊軍です)と、弘文天皇(第39代、大友皇子)を支持する派(皇軍)の間で争いが勃発します。

天武天皇(第40代、大海人皇子、41歳)には人望があり、多くの勢力が味方しました。

この戦いの結果、弘文天皇(第39代、大友皇子、24歳)は自害に追いやられます。

これは賊軍が皇軍に勝利した(賊軍についた兵士のほうが皇軍についた兵士の数より多かった)稀な戦いです。

こうして天武天皇(第40代、大海人皇子、42歳)が天皇に即位します。

 

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強大な天武天皇(第40代、大海人皇子)に逆らえるものはなく、氏族らの私有地・私有民をすべて没収することにも成功し、聖徳太子が理想としていた天皇を中心とする国家の体系を完成させていきます。

また、天武天皇(第40代、大海人皇子)は国史の編纂(「古事記」や「日本書紀」の編纂)を推進し、このときはじめて「日本」という国号や「天皇」という称号を制定したと伝えられています。

白村江の戦いに敗北したのち、日本は他国からの侵略を受ける危機感が増していました。国史の編集は国体としての日本を強固にする意図があったものと思われます。

天武天皇の崩御後、天武天皇の妃であった持統天皇(第41代、女性) は、天武天皇の皇子(草壁皇子) に皇位を継承させたいと考えました。ところが草壁皇子より優秀かつ人望もあった草壁皇子の兄(大津皇子、草壁皇子の異母兄弟)が謎の自害を遂げ、その事件に草壁皇子の関与が疑われたため、草壁皇子はなかなか皇位を継ぐことができませんでした。

そうこうするうち、草壁皇子は皇位を継ぐことなく早世してしまいます。

皇位継承者が消失してしまう危機でしたが、ここは、天武天皇の皇后(草壁皇子の母、天智天皇の娘)である持統天皇(第41代、女性、45歳)が即位することで乗りきりました。

持統天皇(第41代、女性)は日本で初めて宮廷の都、藤原京(奈良)を建設します。

その後、持統天皇(第41代、女性、52歳)は、天武天皇の孫(草壁皇子の子)である文武天皇(第42代、15歳)へ皇位を生前譲位します。

天武天皇の皇統を維持することに成功した持統天皇(第41代、女性)はさぞかし安心したことでしょう。

その後、ようやく大宝律令(律は刑法、令は民法)が完成し、ここに聖徳太子が理想としていた天皇を中心とする(宮廷の都~朝廷~を行政府とする)国家の体系がようやく整いました。

このとき大宝律令で定められた軍事的職能集団が、その後、武士とよばれる集団になります。

また、大宝律令が定める徴税システムにより、その後、貴族たちの暮らしは非常に優雅なものになっていきます。

文武天皇(第42代、25歳)が早逝すると、その王子であった聖武天皇(第45代、6歳)はまだ若かったため、 元明天皇(第43代、女性、47歳、草壁皇子の皇妃、天智天皇の娘)が皇位を継承します。

元明天皇(第43代、女性、49歳)は、藤原京(奈良)を平城京(奈良)に遷都します。

大宝律令により行政府が肥大化し、藤原京では手狭になったためです。ここからが奈良時代です。

元正天皇(第44代、女性、天武天皇の孫)の時代になると日本書紀が完成します。

このころから、中臣鎌足の子孫である藤原氏が朝廷内で重要なポストを占めるようになり、貴族世界に台頭していきます。

その象徴が、聖武天皇(第45代)の皇后となった光明子(藤原氏)と、藤原4兄弟です。

藤原4兄弟は画策して、非皇族出身の光明子(藤原氏)を皇后とすることに成功しました。

それまでは天皇家ではない父親から生まれた女性はたとえ正妻となっても皇后(天皇家、皇族)にはなれなかったのです。

この時代、あまりにも厳しい徴税のため、農民が次第に米を作らなくなっていきました。また、天然痘が大流行し、中央政府では藤原4兄弟が相次いで病死。飢饉を放置した中央政府への祟りともウワサされました。

そこで、聖武天皇(第45代)は、社会復興策として自分が耕した土地の私有化を認めることとしました。

これはもともと農民のための政策でしたが、その後、私有地を増やしたのはむしろ貴族や寺院ばかりで、これが後の武士や僧兵の強大化につながります。

また、火事や地震、人々の争いや不安も広がり、社会不安を抑える教えとして仏教が急速に広がります。

光明子(藤原氏)は、人民どうしの争いや不満、人々の不安を解消したいという一心から、仏教に傾倒し、奈良の大仏(東大寺)を建立します。

このころ中国(唐)から鑑真が来日し、東大寺において正式な僧侶を認定する制度をもたらしました。

朝廷に役職をもつ僧侶も増加し、仏教勢力による政治介入が一段と加速しました。

聖武天皇(第45代)には男児が授からず、娘の孝謙天皇(第46代、31歳、第48代称徳天皇、女性)に譲位します。

聖武天皇(第45代、54歳)が崩御するとまもなく、孝謙天皇(第46代、40歳、第48代称徳天皇 、女性)は、淳仁天皇(第47代、25歳)に皇位を譲りました。

ところが、孝謙天皇(第46代、第48代称徳天皇 、女性)はその後、病にかかり、看病した民間人(僧侶)を寵愛するようになります。それを咎めた淳仁天皇(第47代)は、孝謙天皇(第46代、第48代称徳天皇、女性)の怒りを買って廃位され、淡路島に流されます。

こうして再び孝謙天皇(第46代、第48代称徳天皇、46歳、女性)が重祚します。

孝謙天皇(第46代、第48代称徳天皇 、51歳、女性)は、民間人(僧侶)を重用して愛人とし、あろうことか神のお告げがあったからと、皇位を譲ろうとします。僧侶による朝廷乗っ取り事件です。が、危機一髪で阻止されました。

それほどまでに仏教の影響が大きくなっていました。政治権力に興味を示す僧侶も増えていたのです。

孝謙天皇(第46代、第48代称徳天皇、52歳、女性)の崩御によって天武天皇の系統が途絶えると、話し合いで光仁天皇(第49代、白壁王、61歳)が即位しました。61歳でした。即位年齢としては最も高齢です。

ちなみに、光仁天皇(第49代、白壁王)の皇后(桓武天皇の母)は百済王家の子孫です。

光仁天皇(第49代、白壁王、72歳)は72歳で、桓武天皇(第50代、44歳)に生前譲位します。

桓武天皇(第50代、57歳)は、平安京(京都)に遷都します。仏教の影響が強く残る奈良と政権の間に距離をおくためです。新しい都には奈良の寺院の移転を禁止しました。

ここからが平安時代です。この平安京(京都)は、東京遷都(1869年)まで朝廷として存続します。

桓武天皇(第50代、66歳)は、東北地方の平定に成功します。

このときはじめて天皇の命による征夷大将軍が任命されました。

このころ、聖武天皇(第45代)の時代から私有地を保有することが認められた貴族たちは、その土地を守る武士を必要としていました。その領地を守る武士たちが力をつけていたのです。

ちなみに・・・桓武平氏(後の平清盛ら)は桓武天皇(第50代)を祖とし、清和源氏(後の源頼朝ら)は清和天皇(第56代)を祖とします。

また、最澄と空海により、密教(天台密教、真言密教)が日本に伝えられました。戒律や修業に厳しい密教(天台密教、真言密教)の影響により、仏教は政治とのかかわりを次第に失っていきます。

 

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桓武天皇(第50代、69歳)のあとをついだ平城天皇(第51代、31歳)は、3年後に体調を崩し、弟の嵯峨天皇(第52代、22歳)に皇位を譲りました。

ところが嵯峨天皇(第52代、24歳)は、その後、体調が回復した平城天皇(第51代、36歳)と政策上で深く対立。武力衝突に発展します(薬子の変)。

この争いに勝利した嵯峨天皇(第52代、24歳)の勝利を祈念した空海(真言密教)は、一躍、政界で力をつけたと言われています。

嵯峨天皇(第52代、36歳)は、その後、淳和天皇(第53代、37歳)に皇位を譲ります。

淳和天皇(第53代、47歳)のあとをついだのは仁明天皇(第54代、22歳)です。

仁明天皇(第54代)は、その後、淳和天皇(第53代)の皇子に譲位する予定でしたが、藤原氏の画策(承和の変)によりその計画は廃されました。

結果として、仁明天皇(第54代、39歳)は文徳天皇(第55代、23歳、仁明天皇の皇子)に譲位することになりました。

上に記した皇統図をみると、藤原氏の意図が明白です。

その後、文徳天皇(第55代、31歳) が急逝(31歳)すると、わずか9歳の清和天皇(第56代、9歳)が即位しました。

次々と自分の息子を天皇にすることに成功した藤原氏は清和天皇(第56代、9歳) の摂政(天皇が女性、こども、病気であるときに、天皇にかわって政務をとりしきる役)となりました。

皇族以外による初の摂政になります。

こうして藤原氏が政治の実権を掌握するようになりました。

清和天皇(第56代、26歳)は、陽成天皇(第57代、9歳)に生前譲位します。

このとき、清和天皇(第56代)は、自分自身が天皇の後見人となることによって、藤原氏による影響を排除しようと試みたようです。しかし、清和天皇(第56代)は31歳で崩御してしまいます。

結局、藤原氏が摂政(天皇が女性、こども、病気であるときに、天皇にかわって政務をとりしきる役)を続けることになります。

その後、陽成天皇(第57代)は宮中の暗殺事件にかかわり、藤原氏と対立。わずか17歳で退位に追いやられます。

その後は、藤原氏の意向に沿う光孝天皇(第58代、54歳)が皇位を継承します。

藤原氏は、関白(天皇が成人であっても、天皇にかわって政務をとりしきる役)となり光孝天皇(第58代)を補佐しました。

関白は天皇制における(天皇を除く)最高位です。

このころ、皇室から離脱する氏族(藤原氏、源氏、平氏、橘氏)も増えましたが、朝廷の要職はほぼそれらの氏族によって独占されることになります。

その中でも、藤原一族(中臣鎌足の子孫)による外戚の影響は最大派閥で、のちの九条、近衛、鷹司、二条、一条などはすべて藤原の一族がその居住地を冠したものです。

光孝天皇(第58代、57歳)が崩御すると、宇多天皇(第59代、20歳)が即位します。

このころ、天才、菅原道真があらわれ、氏族出身ではないにもかかわらず、宇多天皇(第59代)に抜擢され出世街道を上りつめます。

宇多天皇(第59代)は菅原道真を利用して藤原氏による政治の独占を抑えようとしたと思われます。

このころ、菅原道真は唐の衰えを理由に遣唐使の停止を提言し、遣唐使は廃止されます。その後、中国では菅原道真が予言した通り、唐が滅び、分裂状態に陥ります。

宇多天皇(第59代、30歳)は、醍醐天皇(第60代、12歳)に譲位し、自らが後見人となります。

菅原道真は右大臣となりました。左大臣である藤原氏と相並ぶ地位です。

ところがそのことによって菅原道真は藤原氏に睨まれることになり、醍醐天皇(第60代)の退位を企てているとの疑いをかけられ大宰府へ左遷されてしまいます(これは後に藤原氏の策略であったことがわかっています)。

同時に、宇多天皇(第59代、34歳)も政治の舞台から遠ざけられました。

一方、醍醐天皇(第60代、29歳)に優秀な男子が生まれ(源高明。源氏物語の主人公、光源氏のモデル?)、出世街道を昇りつめ左大臣にまでなりましたが、藤原氏に睨まれ、大宰府へ左遷されます。

朝廷の要職が藤原氏一族にことごとく独占されるようになると、大宝律令による弊害が目立ち始めます。中央では税収を得る藤原氏ばかりがいい暮らしをし、地方では朝廷から派遣された役人達ばかりがいい暮らしをし、役人におもねる人ばかりがいい暮らしをし、まじめな人々は重税で苦しむようになっていました。律令政治の腐敗です。

律令制度の唐が滅んだことにより律令制度そのものに疑問が投げかけられました。

そしてついに反乱が勃発します。

 

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朱雀天皇(第61代、12歳)の時代、関東をおさめていた平将門(大宰府に左遷された菅原道真の子孫という噂も?)が朝廷に反旗を翻します。同じ頃、瀬戸内海でも反乱がおこります。

これらのクーデターはギリギリのところで平定されます。

最終的に平将門は清和源氏(源経基ら)によって鎮められました(源経基の血統は源頼朝に続きます)。また、瀬戸内海の反乱も桓武平氏の祖(平貞盛ら)によって鎮められました(平貞盛の血統は平清盛に続きます)。

その後、藤原氏は摂政、関白の地位を欲しいままにし、天皇の皇位は、まさに藤原氏の思うががままに継承されていきます。

たとえば冷泉天皇(第63代)の弟は、藤原氏ではない女性(源高明の娘)を皇后に迎えたため、藤原氏に睨まれ天皇になれませんでした。

藤原氏の影響力がどれほどすざましかったかを、その後、最高権力者に登りつめた藤原道長を例にとってみると、藤原道長の姉と妹は、それぞれ冷泉天皇(第63代)と円融天皇(第64代)の妻です。それぞれ一条天皇(第66代)と三条天皇(第67代)の母となりました。また藤原道長の娘(藤原彰子)は、一条天皇の妻となり、後一条天皇(第68代)と後朱雀天皇(第69代)の2代続く天皇の母となりました。また藤原道長のほかの娘たちも、三条天皇(第67代)や後一条天皇(第68代)に嫁ぎました。

なお、一条天皇(第66代)の2人の皇后(藤原定子、藤原彰子)に仕えたのが、有名な清少納言(藤原定子に仕官、枕草子の著者)と紫式部(藤原彰子に仕官、源氏物語の著者)です。

ところが、いくらなんでも藤原氏の女子の数にも限界があります。ついに藤原氏を母としない後三条天皇(第71代)が即位します。すると藤原氏を中心とした状況に変化が生じはじめます。

反藤原氏の政治グループもあったのでしょう。

後三条天皇(第71代)は、ここぞとばかりに藤原氏のポストを減らし、藤原氏の土地を没収。藤原氏の力を弱体化させました。

また、後三条天皇(第71代)は、藤原氏ではない源氏(村上源氏)との間に男子を2人もうけ、白河天皇(第72代、19歳)に次の皇位継承を託します。

ところが、藤原氏を母に持つ白河天皇(第72代)はその遺志を継ぎませんでした。

それどころか白河天皇(第72代、33歳)は、自分と藤原氏との間に生まれた堀河天皇(第73代、7歳)に皇位を継承してしまいます。

しかし藤原家の力は復活しませんでした。どうしてかというと・・・

藤原氏の政治力が弱まっていたこともありますが

白河天皇(第72代、33歳)は、自らが天皇家の家長(治天の君)として幼い天皇を後見したのです。

このアイデア(院政と言います)が功を奏します。清和天皇(第56代)が試みた作戦です。

この仕組みは強力で、藤原家による朝廷の決議をも覆す力がありました。これにより、白河天皇(第72代、33歳)は政治の実権(役人の人事権や命令権、拒否権)を掌握することに成功しました。

政治的実権を失い、かつ、皇位継承にも口出しできなくなった藤原氏の勢力はますます弱くなっていきます。

堀河天皇(第73代、28歳)が崩御すると、白河天皇(第72代、54歳)は、鳥羽天皇(第74代、4歳)を即位させます。

鳥羽天皇(第74代、20歳)が成人すると、次に崇徳天皇(第75代、3歳)を即位させ、院政を続けます。

白河天皇(第72代、76歳)が崩御すると、鳥羽天皇(第74代、26歳)が家長(治天の君)として崇徳天皇(第75代、10歳)を後見し、院政を続けました。

崇徳天皇(第75代)が成人するとまもなく鳥羽天皇(第74代、38歳)は崇徳天皇(第75代、22歳)を退位させ、近衛天皇(第76代、2歳)を即位させました。

鳥羽天皇(第74代)が崇徳天皇(第75代)を退位させたのには年齢的な理由以外に私的な理由があったようです。

実は、崇徳天皇(第75代)は鳥羽天皇(第74代)の子ではなく、白河天皇(第72代)の子!?というとんでもないウワサがあったのです。これが真実なら、鳥羽天皇(第74代)が家長(治天の君)として崇徳天皇(第75代)を後見する正当性が失われます。

しかも、絶世の美女といわれた鳥羽天皇(第74代)の妃がなんと白河天皇と密通していたとか、その間に生まれたのが崇徳天皇(第75代)であるとか。とんでもない話?うわさ?です。そんな事情もあってか、鳥羽天皇(第74代)は、自分の皇子ではないかもしれない崇徳天皇(第75代)を冷遇したと言われています。

近衛天皇(第76代、16歳)が16歳で早逝すると、後継ぎを誰にするかで協議が行われました。

当初は崇徳天皇(第75代)の皇子が後継者の最有力候補でしたが、鳥羽天皇(第74代、52歳)は、後白河天皇(第77代)の皇子(二条天皇(第78代、12歳))を自分の後継者に選びました。

ところが二条天皇(第78代、後白河天皇の皇子、12歳)はまだ若かったため、二条天皇(第78代、後白河天皇の皇子)が即位するまでの「中継ぎ」として即位したのが、二条天皇の父、後白河天皇(第77代、27歳)です。

こうして後白河天皇(第77代、27歳)が即位し、鳥羽天皇(第74代、52歳)は院政を続けます。

自分の子に皇位を継承するチャンスがなくなった崇徳天皇(第75代)は、鳥羽天皇(第74代)や後白河天皇(第77代)を恨んでいたとされてます。

ところが鳥羽天皇(第74代、53歳)は、二条天皇(第78代、後白河天皇の皇子)が成人(即位)する前に崩御してしまいます。

すると、崇徳天皇(兄)と後白河天皇(弟)の対立が表面化します。

この争いは、源氏と平氏による支持をうけた後白河天皇(第77代、28歳)が勝利し、崇徳天皇(第75代、37歳)は讃岐に流されました(保元の乱)。

この争いで、平氏と源氏など武士が勢力をのばします。一方、貴族としての藤原氏の勢力はますます弱くなりました。

武士の中で特に名をあげたのが平清盛です。

公家の力はどんどん弱まり、次第に軍事政権の怖れが高まります。

二条天皇(第78代、後白河天皇の皇子)が15歳になると、後白河天皇(第77代、30歳)は、二条天皇(第78代、15歳)に皇位を譲ります。

鳥羽天皇(第74代)は、後白河天皇(第77代)を「天皇の器量ではない」とし、後白河天皇(第77代)の皇位は二条天皇(第78代、後白河天皇の皇子)が成人するまでの約束だったのです。

こうして後白河天皇(第77代、30歳)による院政(1回目)がはじまりました。

ところが優秀であった二条天皇(第78代)は、実権に固執する後白河天皇(第77代)の強引な政策に嫌気がさし、次第に後白河天皇(第77代)と対立するようになりました。

そして、ついに二条天皇(平氏による支持)と後白河天皇(源氏による支持)の争いに発展しました。

これには院政を嫌う二条天皇側が勝利しました(平治の乱)。

こうして後白河天皇(第77代、32歳)による院政は停止され、二条天皇(第78代、16歳)が政務を取り仕切ることになりました。

源氏の棟梁(源頼朝の父)を破った平清盛は、武士の頂点に立ちました。

平清盛は二条天皇を支持し、朝廷政治においても絶大な影響力を持つことになります。

ところが二条天皇(第78代、後白河天皇の皇子)は22歳で病に倒れてしまいました。

そこで、二条天皇(第78代、22歳)は、急ぎ二条天皇の皇子である六条天皇(第79代、後白河天皇の孫、2歳)に譲位しましたが、院政に至ることなくそのまま崩御してしまいました。

このとき六条天皇(第79代、後白河天皇の孫)はまだ2歳でした。

すると後白河天皇(第77代、39歳)は、六条天皇(第79代、2歳、後白河天皇の孫)の後見人として院政(2回目)を復活させます。

しかし、後白河天皇(第77代)が、二条天皇派(平氏、反後白河天皇派)に支持されている六条天皇(第79代)を後見するのは容易ではありませんでした。

そこで後白河天皇(第77代)は平清盛と手を結び、勢力を拡大しようとします。

まず、平清盛に公家の最高位である太政大臣の位を授けました。その後

後白河天皇(第77代、40歳)は、二条天皇の皇子である六条天皇(第79代、3歳、後白河天皇の孫)を3歳で退位させ、自分の子である高倉天皇(第80代、8歳)を即位させました。

高倉天皇(第80代、8歳)の母は平氏(平清盛の義理の妹)でもあり、この皇位継承は平清盛にとっても好都合でした。

平氏の勢力がのびるとともに、一方で、源氏の勢いはどんどん弱くなっていきました。

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平清盛は、さらに自分の娘を高倉天皇(第80代、12歳)の正妻とします。

これで、平清盛は天皇の父となりました。

後白河天皇(第77代)は急速に勢力をのばしていく平清盛を警戒しはじめます。そして、ことあるごとに理由をつけて少しづつ平氏の財産や土地を没収し始めたのです。

1179年、堪忍袋の緒が切れた平清盛はついにクーデターをおこし、後白河天皇(第77代、53歳)を幽閉してしまいます。

後白河天皇(第77代、53歳)は政治の実権(役人の人事権や命令権、拒否権)を失い、後白河天皇(第77代)による院政は停止されました。

軍事クーデターによる軍事政権の樹立です(六波羅幕府)。

しかし政治のシステム的にはまだ天皇を中心とする体制を受け継いでいました。

1180年、平清盛は、高倉天皇(第80代、19歳)の皇子である安徳天皇(第81代、満1歳、平清盛の孫)を満1歳で即位させます。

安徳天皇(第81代、満1歳、平清盛の孫)の後見人となり院政をとったのは高倉天皇(第80代、19歳)です。

高倉天皇(第80代、19歳)の正妻は平清盛の娘ですから、実質、完全に平清盛による独裁政治の世となったも同然でした。

源氏は平氏独裁に反発します。

高倉天皇(第80代、19歳)は平清盛(義理の父)と実の父親、後白河天皇(第77代)のあいだに挟まれた形となりました。

1180年、高倉天皇(第80代、20歳)は病に倒れ崩御していまいます。

このころ後白河天皇の皇子(以仁王、優秀で人望も抜群)が源氏の力を借りて平氏討伐の皇軍を決起します。

この戦いは賊軍となった平氏(平清盛)が勝利します。

平氏(平清盛)は源氏の動きを監視し始めます。

源氏(源頼朝)は鎌倉に拠点をつくり、平氏独裁政権を断つ機会をうかがいました。

1181年、平清盛は、高熱による病(マラリア?)に倒れ病没します。

ここで、後白河天皇(第77代、55歳)の院政(3回目)が復活します。

1183年、後白河天皇(第77代)は源氏(源頼朝)と結び、平氏を京都から追い落とすことに成功します。

このとき、安徳天皇(第81代、4歳)は、三種の神器をもったまま平氏(母、祖母)に連れられ都落ちします。

都(京都)では、天皇不在となることを避けるため、後白河天皇(第77代)は自身の宣言により、神器のないまま後鳥羽天皇(第82代、3歳)を即位させます。

後白河天皇(第77代)は、後鳥羽天皇(第82代、3歳)の後見人となり、院政を続けます。

つまり、この期間は、同時に2人の天皇が存在することになります(安徳天皇と後鳥羽天皇)。

1185年、後白河天皇(第77代)は源氏(源頼朝)と結び、平氏を滅ぼします(源平合戦 ~ 壇ノ浦の戦い)。

このとき、安徳天皇(第81代、6歳)は、祖母に抱かれて壇ノ浦に入水、6歳で崩御しました。このとき天皇であることを保証する三種の神器(勾玉、鏡、剣)のうち剣が失われたとされます。

皇室からの剣の喪失は、その後の武家政権の台頭を暗示していると、いわれます。

その後、後鳥羽天皇(第82代、4歳)が天皇となりますが、宝剣を失った後鳥羽天皇(第82代)は、そのことに強いコンプレックスをもっていたと言われています。

1192年、後白河天皇(第77代、64歳)が崩御します。

その後、後鳥羽天皇(第82代、11歳)の後見人となったのは、関白(天皇が成人であっても、天皇にかわって政務をとりしきる役)をつかさどる九条家でした。

九条家(関白)は妃を後鳥羽天皇(第82代)におくりますが男子が生まれず、勢力をのばすことができませんでした。

平氏の滅亡と後白河天皇(第77代、64歳)の崩御により、源氏(源頼朝)の力は最大化しました。

1192年、源頼朝は、後鳥羽天皇(第82代、11歳)により大将軍(征夷大将軍)に任ぜられます。

新たな軍事政権の樹立です(鎌倉幕府)。

鎌倉幕府は、天皇を中心とする政治のシステムに大きな変革を加えていきます。

一方、後鳥羽天皇(第82代)は幕府から政治の実権を取り戻す機会を虎視眈々と狙っていました。

このころ法然と親鸞により、念仏宗(浄土宗、浄土真宗)が広められます。

また、栄西と道元により禅宗(臨済宗、曹洞宗)が日本に伝えられます。

1198年、後鳥羽天皇(第82代、17歳)は、藤原氏からの妃との間に生まれた土御門天皇(第83代、2歳)に譲位し、院政を開始します。

1210年、続いて、後鳥羽天皇(第82代)は、土御門天皇(第83代)から順徳天皇(第84代、14歳)へ譲位させ、さらに院政を続けます。

このとき、伊勢神宮より後白河天皇(第77代)におくられていた神剣(1183年)が新たな宝剣と定められました。

1219年、鎌倉軍事政権内部の争いで、源氏が北条氏(平氏系)に滅ぼされます。

1221年、機をみた後鳥羽天皇(第82代)は、鎌倉幕府の北条氏(平氏系)を討伐し、政権を朝廷に取り戻すために挙兵します。

順徳天皇(第84代)も、仲恭天皇(第85代、4歳)へ譲位の後、討幕に参戦します(承久の乱)。

しかしこの戦いは北条氏(平氏系)の勝利に終わり、後鳥羽天皇(第82代)は隠岐に流されます(後にその地で崩御)。順徳天皇(第84代)も佐渡島に流されます。討幕に反対していた土御門天皇(第83代)も土佐に流されます。

3人もの天皇が武士(北条氏)に裁かれるという前代未聞の事態でした。

1221年、仲恭天皇(第85代)は、鎌倉幕府によって退位させられ、その後は、後鳥羽天皇の系統ではない後堀河天皇(第86代、10歳)が即位します。

後堀河天皇(第86代、10歳)の後見人となったのは、後鳥羽天皇との皇位継承争いに負け、すでに出家していた後堀河天皇(第86代、10歳)の父親でしたが2年後に病死、その後、後見人になったのは関白(天皇が成人であっても、天皇にかわって政務をとりしきる役)をつかさどる九条家です。

しかし九条家(関白)では北条氏(平氏系)の力にかないません。

朝廷内の政治、すなわち人事権、紛争解決権力を掌握していたのは完全に鎌倉幕府でした。

京都には朝廷を監視する幕府の機関(六波羅探題)が設置されます。

その後、後堀河天皇(第86代、21歳)は、四条天皇(第87代、2歳)を即位させ、院政を開始しました。が、その2年後に崩御してしまいます。

四条天皇(第87代)の後見人になったのは関白(天皇が成人であっても、天皇にかわって政務をとりしきる役)をつかさどる九条家です。

しかし実質的な権力は鎌倉幕府に残りました。

四条天皇(第87代)が12歳で崩御すると、四条天皇(第87代) に皇子が生まれていなかったため、九条家の推す順徳天皇の系統と幕府の推す土御門天皇の系統の間で皇位継承争いが勃発します。

10日間ほどの空位が生じましたが、平和的な話し合いの結果、土御門天皇の系統である後嵯峨天皇(第88代、24歳)が即位します。

このように皇位継承にも鎌倉幕府の意向が強く影響しました。

1246年、後嵯峨天皇(第88代)は、後深草天皇(第89代、2歳)へ譲位し、院政をはじめます。

1260年、後嵯峨天皇(第88代)は、亀山天皇(第90代、10歳)を即位させ、院政を続けます。

この時代の院政は、それまでの院政と異なり、鎌倉幕府による影響を非常に強くうけていたと言われています。

1272年、幕府との争いを極力避けたかった後嵯峨天皇(第88代、51歳)は、その後の皇位継承のすべてを幕府にまかせて崩御してしまいます。

その結果、後深草天皇(持明院統、第89代、28歳)と亀山天皇(大覚寺統、第90代、22歳)との間で皇位継承争いが勃発します。

この争いに鎌倉幕府が介入し、持明院統と大覚寺統の間で交互に皇統を系統していくという皇統分裂(両統迭立)に決着します。

 

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1274年、蒙古襲来

1281年、蒙古襲来

2度の蒙古襲来(元寇)により、鎌倉幕府を筆頭とする武士勢力の経済力は大きく損なわれ、次第に鎌倉幕府に従わない強盗武士団が各地に誕生します。その最大勢力が日本史上一の軍事的天才ともいわれる楠木正成(橘氏系)で、城を構えるまでになります。

1324年、かねてより天皇親政の復活を目論んでいた後醍醐天皇(大覚寺統、第96代、36歳)に、鎌倉幕府打倒の疑いがかかり側近が処罰されます(正中の変)。

1331年、後醍醐天皇(大覚寺統、第96代、42歳)は、再び鎌倉幕府の倒幕を計画します。しかしこの計画は失敗におわり後醍醐天皇(大覚寺統、第96代)は鎌倉幕府に捕らえられます(元弘の乱)。

この戦いで後醍醐天皇(大覚寺統、第96代)に加勢して名を上げた楠木正成(橘氏系)は、その後も大坂一帯を制圧するなど、鎌倉幕府を牽制し続けます。

1332年、鎌倉幕府は、後醍醐天皇(大覚寺統、第96代)を退位させ、隠岐に流し、持明院統の光厳天皇(持明院統、後伏見天皇(持明院統、第93代)の皇子、19歳)を即位させます。

1332年、大阪に拠点を築いた楠木正成(橘氏系)に鎌倉幕府が大軍を向けますが、楠木正成はこれと互角に戦います。この争いに触発され反幕府軍が全国で次々と決起します。

1333年、後醍醐天皇(大覚寺統、第96代、44歳)は、隠岐を脱出。楠木正成(橘氏系)とともに再び倒幕軍を挙兵します。これに呼応するように、幕府軍から足利尊氏(源氏系)と新田義貞(源氏系)が反幕府に寝返り、ついに北条氏(平氏系)は滅ぼされます。

こうして鎌倉幕府は滅亡しました。

1333年、 後醍醐天皇(大覚寺統、第96代)は、1331年の自らの退位と1332年の光厳天皇の即位そのものを取り消し、皇統を大覚寺統に統一、ここに皇統分裂(両統迭立)は解消し、天皇親政が復活しました。

ところが、天皇親政のもとでは公家ばかりが厚遇され、武士が冷遇されたため、武家の間に猛烈な反感が高まりました。

1335年、足利尊氏(源氏系)は、後醍醐天皇(大覚寺統、第96代)に反旗を翻します。

足利尊氏(源氏系)は、後醍醐天皇(大覚寺統、第96代)側に残った新田義貞(源氏系)と楠木正成(橘氏系)の軍に一進一退の末、いったん九州に逃れましたが、退位させられていた光厳天皇(持明院統)を後ろ盾とし、九州で大軍をまとめて巻き返しを図り、京都へ向かって進軍します。

すると楠木正成(橘氏系)は、足利尊氏(源氏系)の大軍から新田義貞(源氏系)の軍を逃すために抵抗戦ののち自害、新田義貞(源氏系)は京都から福井県に敗走しましたが、討ち取られます。

後醍醐天皇(大覚寺統、第96代、48歳)は、足利尊氏(源氏系)によって都から追われ、三種の神器をもったまま吉野へ下りました。足利尊氏(源氏系)に贋物の神器を渡したともいわれます。

足利尊氏(源氏系)は、光厳天皇(持明院統、北朝第1代)を天皇家の家長(治天の君)に推薦し、光厳天皇(持明院統、北朝第1代)の宣言により、神器のないまま光明天皇(持明院統、北朝第2代、光厳天皇の弟、15歳)を擁立します。

これが北朝の始まりであり、光厳天皇による院政の開始です。後鳥羽天皇(第82代)のときの、神器のない即位方式にならったとされています。

後醍醐天皇(大覚寺統、第96代、南朝第1代)は、北朝を否定し、三種の神器を擁する自身の皇統の正当性を主張します(北朝に対し南朝とよばれます)。

以後、同時に2人の天皇がいるという異常事態(交互にではなく同時に2人)~ 南北朝時代 ~ が58年続きます。

足利尊氏(源氏系)を、後醍醐天皇(大覚寺統)に刃向かい、勝手に北朝をはじめた天下の逆賊とみる考えもあります。

1338年、足利尊氏は、光明天皇(持明院統、北朝第2代)により征夷大将軍に任じられ、軍事政権を樹立します(室町幕府)。

1339年、後醍醐天皇(第96代、大覚寺統、南朝第2代、52歳)は失意のうちに吉野にて崩御し、御村上天皇(第97代、大覚寺統、南朝第2代)が即位します。

1351年、足利尊氏は南朝(大覚寺統)と和睦し、北朝(持明院統)はいったん廃止されます。

1352年、しかしこの和睦は形式的なものであったため、再び南北朝に分裂しました。

1378年、室町幕府第3代将軍、足利義満は京都室町に広大な御所(花の御所)を建設します。

1392年、足利義満の和平案により、ようやく南朝(大覚寺統)の後亀山天皇(第99代、南朝第4代)から北朝(持明院統)の後小松天皇(第100代、北朝第6代、16歳)へ三種の神器が授けられ、ついに南北朝が統一されます。その後の皇統は南北朝が交互に系統していく両統迭立の約束でした。

ちなみに、北朝6代の天皇のうち、後小松天皇(第100代、北朝第6代)を除く5人(北朝第1代の光厳天皇を含む5人)は、通常、歴代天皇に含まれません。

1393年、後小松天皇(第100代、北朝第6代、16歳)の後見人として院政をしいていた後円融天皇(持明院統、北朝第5代)が崩御すると、足利義満は後小松天皇(第100代、北朝第6代、16歳)の後見人として院政を開始。天皇が有するほぼすべての権限を継承してしまいます。このころの足利義満は天皇を自宅に招いて政務をおこなうほどの力がありました。

1394年、後小松天皇(第100代、北朝第6代)の私生児として一休宗純(一休さん)が誕生します。

1395年、足利義満は、公家の最高位である太政大臣の位を授かります。

1397年、足利義満は、金閣寺(禅宗一派である臨済宗の寺院)を建立します。

1401年、足利義満は、中国に使節をおくり、中国より日本国王の称号を与えられます。

1406年、足利義満は自分の妻を後小松天皇(第100代、北朝第6代)の母に準じる地位につけます。

これで、足利義満は天皇の父に準ずることになりました。 その後、自分の子を皇位につけ、足利家による天皇家の乗っ取り、すなわち皇位剥奪を目論んでいたのではないか?といわれています。

1408年、足利義満、急逝します。

1412年、南北朝統一以降、交互に皇統を系統していく両統迭立の約束でしたが、幕府の策略により、後小松天皇(第100代、北朝第6代)は、皇位を北朝(持明院統、自分の子)に譲位、院政を開始します。

その後は、北朝(持明院統)が皇統を継代することになりました。この約束違反に対し、南朝(大覚寺統)の皇族がたびたび武装蜂起しますが、ついに皇統は絶たれてしまいます。

以後、北朝王朝が現在まで続いています。

1467年、応仁の乱がはじまり、戦国時代へはいります。

1573年、室町幕府が滅亡します。

 

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