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2022年6月13日 (月)

【壮大】日本版キングダム

伝説によると、およそ2680年前(紀元前およそ660年ごろ)、神武天皇(第1代)が初めて日本を武力で統一し、

以後、天皇による日本王朝、すなわちキングダムがはじまった・・・

と言われています。


まぁ、応神天皇(第15代)より前の、とくに紀元前の史実については、その真偽のほどは別として少なくともそのキングダムが現在まで続いていると考えると王朝としては世界最長です。

(ちなみに中国の歴史書によると、西暦200年ごろ邪馬台国に女王卑弥呼があらわれますが、卑弥呼と天皇家との関係は不明です)

世界最長とはいえ、だからといって

すべてが順風満帆だった・・・というわけではないようです。調べてみると、なんと

西暦450年ごろ(朝鮮半島で、新羅、百済、任那が覇権争いを繰り広げていたころ)、日本王朝は、すでに皇統断絶の危機に陥っていたらしいのです。

武烈天皇(第25代)に継承者が生まれず、数代さかのぼっても皇統を継承できる男性はいませんでした。

当時、この危機をどうやって乗り越えたかというと・・・

世代を10代もさかのぼり、応神天皇(第15代)の血統を継ぐ継体天皇(第26代、応神天皇5世)を越前にみいだし都(奈良)へ迎え入れたのです。

驚くのは、この受け入れに、なんと19年もの年月がかかったことです。受け入れ側の派閥争いなど、かなりの確執があったのでしょう。

いずれにせよ、この継体天皇(第26代)を支えて勢力をのばしたのが大伴氏(おおともし)と物部氏(もののべし)という、天皇に仕える氏族です。

しかし、継体天皇(第26代)が崩御すると、なんと皇統は2つに分裂し、同時に2人の天皇が存在するという異常事態に陥りました(二朝併立)。天皇に仕える氏族も分裂し、大伴氏と物部氏も対立しました。

この事態は、欽明天皇(第29代)が即位した時点で収束したと伝えられています(詳細不明)。

このとき欽明天皇(第29代)を支えて勢力をのばしたのが物部氏です。一方、大伴氏は滅びてしまいます。あらたに蘇我氏(そがし)が頭角をあらわします。

この時代に朝鮮半島(百済の聖王)から仏教が伝来します。

すると今度は天皇に仕える氏族らが仏教派(蘇我氏)vs 神道派(物部氏)にわかれて対立しはじめました。

幸い、欽明天皇(第29代)から敏達天皇(第30代、神道派)、敏達天皇(第30代、神道派)から用明天皇(第31代、仏教派、聖徳太子の父)への皇位継承には影響はなかったようです。

ところが、用明天皇(第31代、仏教派、聖徳太子の父)が即位後わずか2年で崩御すると、ここで皇位継承争いが勃発します。蘇我氏(仏教派)が推す崇峻天皇と物部氏(神道派)が推す崇峻天皇の兄の間の争いです。

この争いは、蘇我氏(仏教派)が勝利し、崇峻天皇(第32代)が皇位につきます。

崇峻天皇の兄を擁立しようとした物部氏(神道派)は滅びてしまいました。

蘇我氏に推された崇峻天皇は、しかし、その後、蘇我氏と対立するようになります。

そして蘇我馬子(蘇我氏一代目)に殺害されてしまいます。

日本史史上唯一ともいえる、部下による天皇殺害といわれます。

蘇我馬子(蘇我氏一代目)が咎められた様子はなく、当時の蘇我氏の力がわかります。

このころの皇位継承者には、年齢順に

敏達天皇の息子(押坂彦人大兄皇子、年齢不詳、非蘇我氏系)

敏達天皇と推古天皇の息子(竹田皇子、年齢不詳、蘇我氏系)

用明天皇の息子(聖徳太子、蘇我氏系、19歳)

の3人のですが、年齢上位の2人(敏達天皇の息子(押坂彦人大兄皇子、非蘇我氏系)と敏達天皇と推古天皇の息子(竹田皇子、蘇我氏系)の2人)は既に死亡していた(?)とも言われています。このあたり、記録があやふやでよくわかりません。

いずれにしろ、もっとも皇位継承の可能性が高かったのが、用明天皇の息子(聖徳太子、蘇我氏系、19歳)だったようです。

しかし・・・

用明天皇の息子(聖徳太子、蘇我氏系、19歳)は、当時、天皇にはまだ若すぎるとされ、蘇我馬子(蘇我氏一代目)が推したのは、敏達天皇の皇后である推古天皇(初の女性天皇、第33代、40歳)でした。

推古天皇(初の女性天皇、第33代)は蘇我馬子(蘇我氏一代目)の姪にあたり、蘇我馬子(蘇我氏一代目)にとっては、女性天皇の方が男性天皇より扱いやすいと判断したのでは?と言われています。

蘇我氏の影響をできるだけ排除したい推古天皇(第33代、40歳)は、用明天皇の息子(聖徳太子、蘇我氏系、19歳)を日本初の摂政(天皇が女性、こども、病気であるときに、天皇にかわって政務をとりしきる役)に任じます。

聖徳太子は摂政として推古天皇を支えつつ、人々の争い、不満を抑えるために、仏教法典を編纂し、法隆寺を建設しました。遣隋使を派遣し、中国からあらゆることを学ぼうとしました。何よりも特筆すべきは、日本ではじめて憲法を制定し、天皇の下に行政府をおく「天皇中心国家」の基礎を築いたことです。外交力、カリスマもあり、中国の皇帝からも日本の次期天皇候補として一目置かれる存在であったようです。

しかし、聖徳太子は、推古天皇の在位中に死去してしまいます(このころは生前譲位は認められていませんでしたので、聖徳太子は天皇になれませんでした)。

つづいて推古天皇も崩御し、その後は聖徳太子の息子(山背大兄王、蘇我氏系)を推す皇子派と、敏達天皇の孫(押坂彦人大兄皇子の子)にあたる舒明天皇(田村皇子、非蘇我氏系)を推す蘇我氏の間で皇統継続争いになりました。

この争いには蘇我氏が勝利し、舒明天皇(第34代)が即位します。

舒明天皇(第34代)を担いで権力をのばしたのが、蘇我蝦夷(蘇我氏二代目)です。

しかし、なぜ蘇我蝦夷(蘇我氏二代目)が非蘇我氏系の舒明天皇(第34代)を支持したのかはよくわかっていません。蘇我蝦夷(蘇我氏二代目)の政治的バランス感覚によるという説もあります。

舒明天皇が崩御すると、蘇我入鹿(蘇我氏三代目)は、皇極天皇(女性、非蘇我氏系)を担いで力をのばしました。

このころ、聖徳太子の遺志を受け継ぎ、中国(隋・唐)で国家の作り方を学んだものたちが続々と帰国し、天皇を中心とする国家を作りあげようとする機運が高まっていました。しかし、その動きは権力をわがものにしたい蘇我入鹿(蘇我氏三代目)にとっては都合の悪い話です。

皇極天皇(第35代)に継ぐ皇位継承者には

舒明天皇の息子(古人大兄皇子、蘇我氏系)

聖徳太子の息子(山背大兄王、蘇我氏系)

舒明天皇と皇極天皇の皇子である天智天皇(第38代、中大兄皇子、非蘇我氏系)

の3人がいました。蘇我入鹿(蘇我氏三代目)が推していたのは、自分のいうことをよくきく舒明天皇の息子(古人大兄皇子、蘇我氏系)でした。

しかし、次期天皇として最も人望があったのは、聖徳太子の息子(山背大兄王、蘇我氏系)です。

そこで、蘇我入鹿(蘇我氏三代目)は、聖徳太子の息子(山背大兄王、蘇我氏系)を殺害してしまいます。ここに聖徳太子の血統は途絶えてしまいました。

命の危険を感じた天智天皇(第38代、中大兄皇子、非蘇我氏系)は、先手をうち、中臣鎌足(藤原氏の祖)と協力し、蘇我入鹿(蘇我氏三代目)を殺害します。

その後、蘇我蝦夷(蘇我氏二代目)も自害に追いやられ、ここに蘇我氏は滅びました。舒明天皇の息子(古人大兄皇子、蘇我氏系)にも謀反の疑いがかかり、滅ぼされました。

天智天皇(第38代、中大兄皇子、非蘇我氏系)は、このクーデターが皇位目的ではないことを示すため、皇極天皇(第35代、第37代、女性、天智天皇の母)からの皇位継承を拒否します。その結果、皇位は孝徳天皇(第36代、50歳)に継承されます。

これが日本史史上初の生前譲位です。

孝徳天皇(第36代)のもと、天智天皇(第38代、中大兄皇子)は、聖徳太子が理想とした天皇を中心とする国家をつくろうとしましたが、氏族らによる既得権益(賄賂による人事や裁きの慣習など)の壁は厚く、なかなかうまくいきませんでした。

孝徳天皇(第36代)の時代、中国の唐に攻められた朝鮮半島の百済から助けを求められ、天智天皇(第38代、中大兄皇子)が中心となって白村江の戦いをおこしますが、敗戦してしまいます。

天智天皇(第38代、中大兄皇子)は、孝徳天皇(第36代)の崩御後も即位せず、皇極天皇(第35代、第37代、女性、天智天皇の母)が崩御して、ようやく即位しました。

しかし、白村江の戦いで困窮した財政を立て直すことができず、人民の不満を買います。

天智天皇(第38代、中大兄皇子)の後継者は、当初は、弟である天武天皇(第40代、大海人皇子)の予定でした。

ところが、天智天皇(第38代、中大兄皇子)に弘文天皇(第39代、大友皇子)が生まれると、天智天皇(第38代、中大兄皇子)は弘文天皇(第39代、大友皇子)に皇位を継承してしまいます。

このとき、天武天皇(第40代、大海人皇子)は潔く身を引きましたが、天智天皇(第38代、中大兄皇子)が崩御すると、弘文天皇(第39代、大友皇子)は、天武天皇(第40代、大海人皇子)を滅ぼそうとします。ここに人望があった天武天皇(第40代、大海人皇子)を支持する派閥(賊軍)と、弘文天皇(第39代、大友皇子)を支持する派閥(皇軍)の間で争いがおきてしまいます。

この戦いの結果、弘文天皇(第39代、大友皇子)は自害に追いやられます。

これは賊軍が皇軍に勝利した(賊軍についた兵士のほうが、皇軍についた兵士の数より多かった)稀な戦いです。

こうして天武天皇(第40代、大海人皇子)が天皇に即位します。

天武天皇(第40代、大海人皇子)は、聖徳太子が理想としていた天皇を中心とする国家の体系を少しづつ整えていきます。

天武天皇(第40代、大海人皇子)によって国史の編纂(「古事記」や「日本書紀」の編纂)がはじまり、「日本」という国号や「天皇」という称号が制定されたと伝えられています。

天武天皇の崩御後、皇位を継承する予定であった皇子(草壁皇子)は、草壁皇子の兄(大津皇子、草壁皇子の異母兄弟)との間に発生したトラブルのためになかなか皇位を継ぐことができませんでした。草壁皇子より優秀かつ人望もあった大津皇子が謀反の疑いをかけられ自害したことに、草壁皇子の関与が疑われたからだといわれています。草壁皇子は皇位を継ぐ前に早世してしまいます。

この危機は、草壁皇子の母(天武天皇の皇后、天智天皇の娘)である持統天皇(第41代、女性)が即位することで乗りきりました。

持統天皇(第41代、女性)は、藤原京(奈良)を建設します。

持統天皇(第41代、女性)は、孫(草壁皇子の息子)である文武天皇(第42代、24歳)に生前譲位します。

その後、大宝律令が完成し、ここに聖徳太子が理想としていた天皇を中心とする国家の体系がようやく整いました。

大宝律令で定められた軍事的職能集団が、その後、武士とよばれるようになります。

元明天皇(第43代、女性、草壁皇子の皇妃、天智天皇の娘)は、藤原京(奈良)を平城京(奈良)に遷都します。大宝律令により行政府が肥大化し藤原京では手狭になったためです。ここからが奈良時代です。

このころから、中臣鎌足の子孫である藤原氏が朝廷内で重要なポストを占めるようになり、貴族世界に台頭していきます。

聖武天皇(第45代)の皇后は、藤原氏からはじめての非皇族皇后となったことで有名な光明子(藤原氏)です。

光明子(藤原氏)は、人民どうしの争いや不満、人々の不安を解消したいという一心から、仏教に傾倒し、奈良の大仏を建立します。

しかし聖武天皇(第45代)には男児が授からず、天武天皇の系統は孝謙天皇(第46代、第48代、女性)で途絶えてしまいます。

そこで、孝謙天皇(第46代、第48代、女性)は、あろうことかその皇位を自分の愛人である民間人(僧侶)に譲ろうとします。が、危機一髪で阻止されました。

当時の政治は、仏教の理念に大きな影響をうけており、政務にかかわる僧侶も増えていたのです。それどまでに仏教の影響が大きくなっていたというエピソードです。

天武天皇の系統が孝謙天皇(第46代、第48代、女性)で途絶えると、話し合いで光仁天皇(第49代、白壁王)が即位しました。

ちなみに、光仁天皇(第49代、白壁王)の皇后(桓武天皇の母)は百済王家の子孫です。

桓武天皇(第50代)は、平安京(京都)に遷都します。仏教(奈良)の影響から距離をおくためです。ここからが平安時代です。

桓武天皇(第50代)は、東北地方の平定に成功します。

このときはじめて天皇の命による征夷大将軍が任命されました。

このころより、武士勢力が力をつけていきます。

ちなみに・・・

平清盛に代表される武士集団である桓武平氏は、桓武天皇(第50代)を祖とします。

源頼朝に代表される武士集団である清和源氏は、清和天皇(第56代)を祖とします。

仁明天皇(第54代)の後は、淳和天皇(第53代)の皇子が即位する予定でしたが、藤原氏の画策により、仁明天皇の皇子である文徳天皇(第55代)が即位します(承和の変)。

文徳天皇の崩御(31歳)にともない、わずか9歳で清和天皇(第56代、9歳)が即位します。

藤原氏は、摂政(天皇が女性、こども、病気であるときに、天皇にかわって政務をとりしきる役)となります。

清和天皇は26歳で、陽成天皇(第57代、9歳)に生前譲位します。清和天皇は、おそらく藤原氏による影響を排除しようと試みたのではないでしょうか。しかし、清和天皇は31歳で崩御してしまいます。藤原氏は摂政(天皇が女性、こども、病気であるときに、天皇にかわって政務をとりしきる役)を続けます。

その後、陽成天皇(第57代)は藤原氏との対立に陥り、わずか17歳で退位に追いやられます。

その後は、藤原氏の意向に沿う光孝天皇(第58代)が皇位を継承します。

藤原氏は、関白(天皇が成人であっても、天皇にかわって政務をとりしきる役)となります。

このころから、皇室から離脱する氏族(藤原氏、源氏、平氏、橘氏)が増え、朝廷の要職はほぼそれらの氏族に独占されることになります。

その中でも、藤原一族(中臣鎌足の子孫)による外戚の影響は最大派閥で、のちの九条、近衛、鷹司、二条、一条などはすべて藤原の一族がその居住地を冠したものです。

このころ、天才、菅原道真があらわれ、有力氏族出身ではないにもかかわらず、宇多天皇(第59代)、醍醐天皇(第60代)に抜擢され出世街道を上りつめ右大臣になりました。しかし、藤原氏のライバルとなってしまい、大宰府へ左遷されることになります。

また、醍醐天皇(第60代)に優秀な男子が生まれ(源高明。光源氏のモデル?)、出世街道を昇りつめ左大臣となりましたが、藤原氏のライバルとなってしまい、大宰府へ左遷されます。

朱雀天皇(第61代、12歳)のとき、大宰府に左遷された菅原道真の子孫が関東、東国で武士勢力と結びつき一大勢力となり、さまざまな利権をめぐって朝廷と対立するようになりましたが、藤原氏の作戦によって鎮められます(平将門の乱)。

その後は、藤原氏の思うががままに、天皇の皇位が継承されていきます。たとえば、冷泉天皇(第63代)の弟は、藤原氏ではない源高明の娘を皇后に迎えたため、藤原氏に睨まれ天皇になれませんでした。

たとえば、藤原道長の影響力がどれほどすざましかったかというと、一条天皇(第66代)の母、および三条天皇(第67代)の母は、藤原道長の姉妹です。後一条天皇(第68代)の母、および後朱雀天皇(第69代)の母(彰子)、後一条天皇(第68代)の皇后、三条天皇(第67代)の皇后は、藤原道長の娘たちです。

ちなみに、一条天皇(第66代)の2人の皇后(藤原定子、藤原彰子)の教育者が有名な清少納言(定子に仕官し、枕草子を著す)と紫式部(彰子に仕官し、源氏物語を著す)です。

藤原氏に女子が生まれず、藤原氏を母としない後三条天皇(第71代)が即位すると、このころから藤原氏を中心とした状況に変化が生じはじめます。

後三条天皇(第71代)は、ここぞとばかりに藤原氏のポストを減らし、土地を没収し、藤原氏の力を弱体化させます。

また、後三条天皇(第71代)は、源氏(村上源氏)との間に男子を2人もうけ、白河天皇(第72代、18歳)に次の皇位継承を託します。

ところが、白河天皇(第72代、34歳)はその遺志を継がず、自分と藤原氏との間に生まれた堀河天皇(第73代、8歳)に皇位を生前譲位し、自らが天皇家の家長(治天の君)として幼い天皇を後見しました。

このことにより、白河天皇(第72代、34歳)は、藤原氏の影響をうけない皇位継承に成功し、かつ、政治の実権(役人の人事権や命令権、拒否権)を掌握しつづけることに成功しました(院政)。

政治的実権を失い、かつ、皇位継承にも口出しできなくなった藤原氏の勢力は次第に弱くなっていきます。

その後、白河天皇(第72代)は、鳥羽天皇(第74代、4歳)を即位させ、次に崇徳天皇(第75代、5歳)を即位させ、院政を続けます。

白河天皇の崩御後は、鳥羽天皇(第74代)が院政を続けました。

鳥羽天皇(第74代)は、院政をはじめると、すぐに崇徳天皇(第75代、22歳)を退位させ、近衛天皇(第76代、3歳)を即位させました。

鳥羽天皇(第74代)が崇徳天皇(第75代)を退位させたのには理由があったようです。

実は、崇徳天皇(第75代)は鳥羽天皇(第74代)の息子ではなく、白河天皇(第72代)の息子!?というとんでもないウワサがあったのです。絶世の美女といわれた鳥羽天皇(第74代)の妃は、なんと白河天皇と密通していたとか。そんな事情もあってか、鳥羽天皇(第74代)は自分の皇子ではない可能性がある崇徳天皇(第75代)を冷遇したと言われています。

しかし、近衛天皇(第76代)が17歳で早逝すると、崇徳天皇(第75代)の息子と、後白河天皇(第77代)の息子(二条天皇(第78代))の間で皇位継承問題が生じました。

このとき鳥羽天皇が(第74代)が次の後継者と目したのは後白河天皇(第77代)の息子(二条天皇(第78代))でした。

しかし、二条天皇(第78代)はまだ若く、二条天皇(第78代)が即位するまでの中継ぎを務めることになったのが、後白河天皇(第77代、29歳)です。

後白河天皇(第77代)は、鳥羽天皇(第74代)から「天皇の器量ではない」といわれており、後白河天皇(第77代)の皇位は二条天皇(第78代)が成人するまでの約束でした。

こうして後白河天皇(第77代)が即位し、鳥羽天皇(第74代)は院政を続けます。

自分の息子に皇位を継承するチャンスがなくなった崇徳天皇(第75代)は、鳥羽天皇(第74代)を恨んでいたとされます。

ところが鳥羽天皇(第74代)は、二条天皇(第78代)が成人(即位)する前に崩御してしまいます。

すると、崇徳天皇(兄)と後白河天皇(弟)の対立が激化しました。

この争いは、源氏と平氏による支持をうけた後白河天皇(第77代)が勝利し、崇徳天皇(第75代)は讃岐に流されました(保元の乱)。

この争いで、平氏と源氏など武士が勢力をのばします。一方、貴族としての藤原氏の勢力はますます弱くなりました。

武士の中で特に名をあげたのが平清盛です。

公家の力が弱まり、次第に軍事政権のきざしが高まりつつありました。

二条天皇(第78代、後白河天皇の息子)が15歳になると、後白河天皇(第77代)は、鳥羽天皇(第74代)との約束通り、二条天皇(第78代)に皇位を譲ります。

こうして後白河天皇(第77代、32歳)による院政がはじまりました。

朝廷内では、院政を嫌う二条天皇派と、院政を好む後白河天皇派が対立するようになりました。

二条天皇派は平氏の助けを借り、後白河天皇派は源氏の助けを借り、争いました。

これには二条天皇側が勝利しました(平治の乱)。

この争いで、平清盛が源氏の棟梁である源頼朝の父を破り、武士の頂点に立ちました。

後白河天皇による院政は停止され、二条天皇が政務を取り仕切りますが、どうしても平氏(平清盛)の影響を受けたものでした。

二条天皇(第78代)が22歳で早逝すると、二条天皇の皇子である六条天皇(第79代、2歳、後白河天皇の孫)が即位します。しかし、まだ、わずか2歳でした。

ここに、後白河天皇(第77代、39歳)による院政が復活します。

後白河天皇(第77代)は、六条天皇(第79代、後白河天皇の孫、二条天皇の息子)を5歳で退位させ、自分の皇子である高倉天皇(第80代、8歳)を即位させます。

高倉天皇の母は平氏(平清盛の義理の妹)であり、この皇位継承は平氏にも好都合だったのです。

平清盛は、自分の娘を高倉天皇(第80代、12歳)の正妻とし、平氏はますます勢力をのばします。一方、源氏の勢いは弱くなっていました。

後白河天皇(第77代)は、勢力が強くなりすぎた平氏と対立するようになります。

1179年、平清盛によるクーデターにより、ついに後白河天皇(第77代、53歳)は政治の実権(役人の人事権や命令権、拒否権)を失い、幽閉されます。後白河天皇(第77代)による院政は停止されました。

軍事クーデターによる軍事政権の樹立です(六波羅幕府)。しかし政治のシステム的にはまだ天皇を中心とする体制を受け継いでいました。

1180年、平氏(平清盛)は、高倉天皇(第80代)の皇子である安徳天皇(第81代、満1歳、平清盛の孫)を満1歳で即位させます。

安徳天皇(第81代、満1歳、平清盛の孫)の後見人となり、院政をとるのは高倉天皇(第80代、19歳)です。その正妻は平清盛の娘ですから、これで完全に平氏の世となりました。源氏は平氏に反発します。

しかし、高倉天皇(第80代、19歳)の父親は後白河天皇(第77代)です。後白河天皇(第77代)は幽閉されているとはいえ、高倉天皇(第80代、19歳)は平清盛と後白河天皇(第77代)のあいだに挟まれてさぞつらかったことでしょう。

1180年、高倉天皇(第80代、20歳)は病に倒れ崩御していまいます。

1181年、平清盛も高熱による病(マラリア?)に倒れ病没します。

ここで、後白河天皇(第77代、55歳)の院政が復活します。

1183年、後白河天皇(第77代)は源氏(源頼朝)と結び、平氏を京都から追い落とすことに成功します。

このとき、安徳天皇(第81代、4歳)は、三種の神器をもったまま平氏(母、祖母)に連れられ都落ちしました。

都(京都)が天皇不在となることを避けるため、後白河天皇(第77代)は自身の宣言により、神器のないまま後鳥羽天皇(第82代、3歳)を即位させます。

後白河天皇(第77代)は、後鳥羽天皇(第82代、3歳)の後見人となり、院政を続けます。

つまり、この期間は、同時に2人の天皇が存在することになります。

1185年、後白河天皇(第77代)は源氏(源頼朝)と結び、平氏を滅ぼします(源平合戦 ~ 壇ノ浦の戦い)。

このとき、安徳天皇(第81代、6歳)は、祖母に抱かれて壇ノ浦に入水、6歳で崩御しました。このとき三種の神器(勾玉、鏡、剣)のうち剣が失われたとされます。

その後、後鳥羽天皇(第82代、4歳)が唯一の天皇となりますが、宝剣を欠く後鳥羽天皇(第82代)は、そのことに強いコンプレックスをもっていたと言われています。

1192年、後白河天皇(第77代、66歳)が崩御します。後鳥羽天皇(第82代、11歳)の後見人となったのは、関白(天皇が成人であっても、天皇にかわって政務をとりしきる役)をつかさどる九条家でした。

平氏滅亡、後白河天皇(第77代、66歳)の崩御により、源氏(源頼朝)の力は強大化しました。

1192年、源頼朝は、後鳥羽天皇(第82代、11歳)により大将軍(征夷大将軍)に任ぜられます。

新たな軍事政権の樹立です(鎌倉幕府)。

鎌倉幕府は、天皇を中心とする政治のシステムに大きな変革を加えていきます。

源頼朝の妻である北条政子の家系(北条氏)の政治力が増していきます。

1198年、後鳥羽天皇(第82代、17歳)は、土御門天皇(第83代、2歳)に譲位し、院政を開始します。

1210年、続いて、後鳥羽天皇(第82代)は、土御門天皇(第83代)から順徳天皇(第84代、14歳)へ譲位させ、さらに院政を続けます。

このとき、1183年に伊勢神宮より後白河天皇(第77代)におくられた神剣が新たな宝剣と定められました。

1219年、鎌倉軍事政権内部の争いで、源氏が北条氏(平氏系)に滅ぼされます。

その後、将軍後継問題で、幕府と朝廷は対立するようになります。

1221年、後鳥羽天皇(第82代)は、自分の意に沿わない幕府(北条氏)を討伐しようと挙兵します。順徳天皇(第84代)も仲恭天皇(第85代、4歳)へ譲位し、討幕に協力します(承久の乱)。

しかし、この争いは幕府軍の勝利に終わり、後鳥羽天皇(第82代)は隠岐に流されます。順徳天皇(第84代)も佐渡島に流されます。討伐に反対していた土御門天皇(第83代)も土佐に流されます。

天皇が武士(北条氏)に裁かれるという前代未聞の事態でした。

1221年、仲恭天皇(第85代)は、鎌倉幕府によってすぐに退位させられ、その後は、後鳥羽天皇の系統ではない後堀河天皇(第86代、10歳)が即位します。

後堀河天皇(第86代、10歳)の後見人となったのは、後鳥羽天皇との皇位継承争いに負け、すでに出家していた後堀河天皇(第86代、10歳)の父親ですが、わずか2年で病死、その後の後見人になったのは関白(天皇が成人であっても、天皇にかわって政務をとりしきる役)をつかさどる九条家です。

実質的には鎌倉幕府が朝廷内の人事権、紛争解決権力を掌握していました。

京都には朝廷を監視する幕府の機関(六波羅探題)が設置されます。

その後、後堀河天皇(第86代、21歳)は、四条天皇(第87代、2歳)を即位させ、院政を開始しましたがその2年後に崩御してしまいます。

四条天皇(第87代)の後見人になったのは関白(天皇が成人であっても、天皇にかわって政務をとりしきる役)をつかさどる九条家です。実質的な権限は鎌倉幕府が掌握し続けます。

しかし、四条天皇(第87代)は12歳で崩御し、皇子が生まれていなかったため、この系統が途絶えます。

その後、九条家の推す順徳天皇の系統と幕府の推す土御門天皇の系統の間で皇位継承争いが生じ、10日間ほどの空位が生じましたが、ここは平和的な話し合いの結果、土御門天皇の系統である後嵯峨天皇(第88代、24歳)が即位します。

皇位継承には鎌倉幕府の意向が強く影響していました。

1246年、後嵯峨天皇(第88代)は、後深草天皇(第89代、2歳)へ譲位し、院政をはじめます。

1260年、後嵯峨天皇(第88代)は、亀山天皇(第90代、10歳)を即位させ、院政を続けます。

この時代の院政は、鎌倉幕府による影響を強くうけていたと言われています。

1272年、幕府との争いを極力避けたかった後嵯峨天皇(第88代、51歳)は、その後の皇位継承のすべてを幕府にまかせて崩御します。

その結果、後深草天皇(持明院統、第89代、28歳)と亀山天皇(大覚寺統、第90代、22歳)との間で皇位継承争いが生じます。

この争いには鎌倉幕府が介入し、持明院統と大覚寺統の間で交互に皇統を系統していくという皇統分裂(両統迭立)に決着します。

1274年、蒙古襲来

1281年、蒙古襲来

2度の蒙古襲来(元寇)により、鎌倉幕府を筆頭とする武士勢力の経済力は大きく損なわれます。

1331年、後醍醐天皇(大覚寺統、第96代、42歳)は、日本史上最大の軍事的天才(どこからともなく表れた成り上がりの武士)といわれる楠木正成(橘氏系)とともに鎌倉幕府の倒幕と天皇親政の復活を図りました。が、失敗します。

後醍醐天皇(大覚寺統、第96代)は隠岐に流され退位し、光厳天皇(持明院統、後伏見天皇(持明院統、第93代)の皇子、19歳)が即位します。

1333年、後醍醐天皇(大覚寺統、第96代、44歳)は、隠岐を脱出し、楠木正成(橘氏系)とともに再び倒幕軍を挙兵します。その後、後醍醐天皇(大覚寺統、第96代)の働きかけによって幕府軍の足利尊氏(源氏系)と新田義貞(源氏系)が倒幕側に寝返り、北条氏(平氏系)は滅ぼされます。

鎌倉幕府は滅亡しました。

後醍醐天皇(大覚寺統、第96代)は、光厳天皇(持明院統)を退位させるだけでなく、1331年の自らの退位と光厳天皇の即位そのものを取り消し、皇統を大覚寺統に統一しました。

ここに皇統分裂(両統迭立)は解消し、天皇親政が復活しました。

ところが、天皇親政のもとで武士は冷遇され、公家ばかりが厚遇されたため、抑圧された武家の間に猛烈な反感が高まりました。

1335年、足利尊氏(源氏系)は、退位させられていた光厳天皇(持明院統)を後ろ盾とし、後醍醐天皇(大覚寺統、第96代)に反旗を翻します。

楠木正成(橘氏系)は後醍醐天皇(大覚寺統)を支持しますが、無理な作戦を強いられ、足利尊氏(源氏系)に敗れます。

1336年、後醍醐天皇(大覚寺統)は、足利尊氏(源氏系)によって都から追われ、三種の神器をもったまま吉野へ下りました。

足利尊氏(源氏系)は、光厳天皇(持明院統、北朝第1代)を天皇家の家長(治天の君)に推薦し、光厳天皇(持明院統、北朝第1代)の宣言により、神器のないまま光明天皇(持明院統、北朝第2代、光厳天皇の弟、15歳)を擁立します。後鳥羽天皇(第82代)の即位方式にならったとされています。これが北朝の始まりであり、光厳天皇による院政の開始です。

後醍醐天皇(大覚寺統、第96代、南朝第1代)は、北朝を否定し、自身の皇統の正当性を主張します(北朝に対し南朝とよばれます)。

以後、同時に2人の天皇がいるという異常事態(交互にではなく同時に2人)~ 南北朝時代 ~ が58年続きます。

このとき勝手に北朝をはじめた足利尊氏(源氏系)は、天下の逆賊であるという考え方もあります。

新田義貞(源氏系)は後醍醐天皇(大覚寺統)のために戦いましたが、足利尊氏(源氏系)に敗れます。

1338年、足利尊氏は、光明天皇(持明院統、北朝第2代)により征夷大将軍に任じられ、軍事政権を樹立します(室町幕府)。

1339年、後醍醐天皇(第96代、大覚寺統、南朝第2代、52歳)は失意のうちに吉野にて崩御し、御村上天皇(第97代、大覚寺統、南朝第2代)が即位します。

1351年、足利尊氏は南朝(大覚寺統)と和睦し、北朝(持明院統)はいったん廃止されます。

1352年、しかしこの和睦は形式的なものであったため、再び南北朝に分裂しました。

1392年、足利義光の和平案により、ようやく南朝(大覚寺統)の後亀山天皇(第99代、南朝第4代)から北朝(持明院統)の後小松天皇(第100代、北朝第6代、16歳)へ三種の神器が受け継がれ、南北朝が統一されます。

ちなみに、北朝6代の天皇のうち、後小松天皇(第100代、北朝第6代)を除く5人(北朝第1代の光厳天皇を含む5人)は、通常、126代の歴代天皇に含まれません。

1393年、後小松天皇(第100代、北朝第6代、16歳)の後見人として院政をしいていた後円融天皇(持明院統、北朝第5代)が崩御すると、室町幕府第3代将軍、足利義満は、天皇のほぼすべての権限を継承してしまいます。

1396年、足利義満は、中国に使節をおくり、中国より日本国王の称号を与えられます。足利義満は皇位を奪おうとしていたのではないか?と考えられています。

1408年、足利義満は急病死し、皇統の危機は回避されました。

1412年、南北朝統一以降は、交互に皇統を系統していく両統迭立の約束でしたが、幕府の策略により、後小松天皇(第100代、北朝第6代)は、皇位を北朝(持明院統、自分の息子)に譲位、院政を開始します。

この約束違反により、南朝(大覚寺統)の皇統は絶たれ、その後、北朝(持明院統)が皇統を継代することになります。

以後、この王朝が現在まで続いています。

1467年、応仁の乱がはじまり、戦国時代へはいります。

1573年、室町幕府が滅亡します

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