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2022年6月13日 (月)

【壮絶】日本版キングダム

伝説によると、紀元前およそ660年ごろおよそ2680年前)、神武天皇(第1代)が初めて日本を武力で統一し、以後、天皇による日本王朝(キングダム)がはじまった・・・

とされます。

しかし、中国の歴史書によると、西暦200年ごろ日本に女王卑弥呼があらわれます。女王卑弥呼の名は、日本の記録にはでてきません。よく言われるように、卑弥呼=天照大御神なのでしょうか?その場合、卑弥呼の数世代後に、神武天皇が九州宮崎で生まれ、その後、大阪へ東遷し、戦乱を治め、初代天皇となり、大和朝廷を始めたことになります。すると、大和朝廷の始まり=神武天皇による日本統一は西暦350年ごろなのでしょうか?


九州福岡で生まれたとされる応神天皇(第15代)より以前の、とくに紀元前の史実については、その真偽のほどは別としても、日本王朝が現在、世界最長のキングダムであることは間違いないでしょう。

しかし、常に順風満帆・・・というわけではなかったようです。

というよりむしろ波乱に満ちています。

少し調べてみると

なんと西暦450年ごろ(朝鮮半島で、新羅、百済、任那が覇権争いを繰り広げていたころ)、すでに日本王朝は皇統断絶の危機に瀕しています。

武烈天皇(第25代)に継承者が生まれなかったのです。

数代さかのぼっても皇統を継承できる男性はいませんでした。

当時、この危機をどうやって乗り越えたかというと・・・

武烈天皇(第25代) から10世代もさかのぼり、応神天皇(第15代)の血統を継ぐ継体天皇(応神天皇5世)を越前にみつけて、やっとのことで都(奈良)へ迎え入れたのです。

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応神天皇と継体天皇のあいだは男性皇統と言われていますが、父親が誰であるかなどの詳細な記録は残されていません。

この種の記録は争いの火種になりますから、意識的に記録を残さなかったのかもしれません

驚くのは、この受け入れにかかった年月です。

記録によると、越前から都(奈良)に連れてくるのに19年もかかっています。

受け入れ側にも派閥争いなどの確執があったのでしょうか。

いずれにせよ、この継体天皇(第26代)を支えて勢力をのばしたのが大伴氏(おおともし)と物部氏(もののべし)です。

天皇に仕える彼らを氏族といいます。

しかし継体天皇(第26代)が崩御すると、皇統は2つに分裂。同時に2人の天皇が存在するという異常事態に陥りました(二朝併立)。

天皇に仕える氏族も分裂し、大伴氏と物部氏も対立しました。

欽明天皇(第29代)の即位によって二朝併立は解消したようですが、その詳細な経緯は不明です。

このとき欽明天皇(第29代)を支えて勢力をのばしたのが物部氏です。一方、物部氏と対立した大伴氏は滅びてしまいます。この争いに乗じ、あらたに蘇我氏(そがし)が頭角をあらわします。

この時代、朝鮮半島(百済の聖王)から仏教が伝来します。

すると天皇に仕える氏族らが仏教派(蘇我氏)vs 神道派(物部氏)にわかれて対立しはじめました。

欽明天皇(第29代)を継いだ敏達天皇(第30代)は神道派でしたが、敏達天皇(第30代)を継いだ用明天皇(第31代、聖徳太子の父)は仏教を重んじました。

仏教派の用明天皇(第31代、仏教派、聖徳太子の父)が即位後わずか2年で崩御すると・・・

皇位継承争いが勃発します。蘇我氏(仏教派)が推す崇峻天皇と物部氏(神道派)が推す崇峻天皇の兄の間の争いです。

この争いは、蘇我氏(仏教派)が勝利し、崇峻天皇(第32代)が皇位につきます。

崇峻天皇の兄を擁立しようとした物部氏(神道派)は滅びてしまいました。

蘇我氏に推された崇峻天皇は、しかし、その後、蘇我氏と対立するようになります。

そして、あろうことか崇峻天皇は蘇我馬子(蘇我氏一代目)に殺害されてしまうのです。

日本史史上唯一ともいえる、部下による天皇殺害です。

記録によると、このことによって蘇我馬子(蘇我氏一代目)が咎められた様子はありません。そのことから当時の蘇我氏の力がわかります。

次の皇位継承者は

敏達天皇の息子(押坂彦人大兄皇子、年齢不詳、非蘇我氏系)

敏達天皇と推古天皇の息子(竹田皇子、年齢不詳、蘇我氏系)

用明天皇の息子(聖徳太子、蘇我氏系、19歳)

の3人がいたはずですが、このあたり、記録があやふやでよくわかりません。

いずれにしろ、もっとも皇位継承の可能性が高かったのが、用明天皇の息子(聖徳太子、蘇我氏系、19歳)です。

しかし・・・

用明天皇の息子(聖徳太子、蘇我氏系、19歳)は、当時、天皇にはまだ若すぎるとされ、蘇我馬子(蘇我氏一代目)が推したのは、敏達天皇の皇后である推古天皇(初の女性天皇、第33代、40歳)でした。

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推古天皇(初の女性天皇、第33代)は蘇我馬子(蘇我氏一代目)の姪にあたり、蘇我馬子(蘇我氏一代目)にとっては、推古天皇の方が女性でもあり扱いやすいと判断したのでは?と言われています。

こうして日本初の女性天皇となった推古天皇(第33代、40歳)は、用明天皇の息子(聖徳太子、蘇我氏系、19歳)を日本初の摂政に任じます。摂政とは、天皇が女性、こども、病気であるときに、天皇にかわって政務をとりしきる役です。

摂政を置いた理由は、蘇我馬子による干渉をできるだけ排除したかったからかもしれません。

聖徳太子は実際、頭脳明晰で優秀だったようです。

聖徳太子は摂政として推古天皇を支えつつ、人々の争いや不満を抑えるために仏教法典を編纂し法隆寺を建設しました。また、遣隋使を派遣し中国から学ぼうとしました。何よりも特筆すべきは、日本ではじめて憲法を制定し、天皇の下に行政府をおく「天皇中心国家」の基礎を築いたことです。外交力やカリスマもあり中国の皇帝からは日本の次期天皇として一目置かれる存在でした。

しかし聖徳太子は推古天皇の在位中に死去してしまい、天皇にはなりませんでした(このころは生前譲位は認められていませんでした)。

つづいて推古天皇も崩御し、その後は聖徳太子の息子(山背大兄王、蘇我氏系)を推す皇子派と敏達天皇の孫(押坂彦人大兄皇子の子)にあたる舒明天皇(田村皇子、非蘇我氏系)を推す蘇我氏の間で皇統継続争いになりました。

この争いには蘇我氏が勝利し、舒明天皇(第34代)が即位します。

舒明天皇(第34代)を担いで権力をのばしたのが、蘇我蝦夷(蘇我氏二代目)です。

しかし、なぜ蘇我蝦夷(蘇我氏二代目)が非蘇我氏系の舒明天皇(第34代)を支持したのかはよくわかっていません。蘇我蝦夷(蘇我氏二代目)の政治的バランス感覚によるという説もあります。蘇我氏の繁栄のためには、聖徳太子につづくあまりに優秀すぎる血統は好ましくなかったのかもしれません。

舒明天皇が崩御すると、蘇我入鹿(蘇我氏三代目)は、皇極天皇(女性、非蘇我氏系)を担いで力をのばします。

このころ、聖徳太子の遺志を受け継ぎ、中国(隋・唐)で国家の作り方を学んだ使節団が続々と帰国し、天皇を中心とする国家を完成させようとする機運が高まっていました。しかし、その動きは権力をわがものにしたい蘇我入鹿(蘇我氏三代目)にとっては都合の悪いものだったはずです。

皇極天皇(第35代)に継ぐ皇位継承者には

舒明天皇の息子(古人大兄皇子、蘇我氏系)

聖徳太子の息子(山背大兄王、蘇我氏系)

舒明天皇と皇極天皇の皇子である天智天皇(第38代、中大兄皇子、非蘇我氏系)

の3人がいました。蘇我入鹿(蘇我氏三代目)が推していたのは、自分のいうことをよくきく舒明天皇の息子(古人大兄皇子、蘇我氏系)でした。

しかし、最も人望があったのは、聖徳太子の息子(山背大兄王、蘇我氏系)だったのです。

そこで、蘇我入鹿(蘇我氏三代目)は、聖徳太子の息子(山背大兄王、蘇我氏系)を殺害してしまいます。ここに聖徳太子の血統は途絶えてしまいました。

わが身の危険を感じた天智天皇(第38代、中大兄皇子、非蘇我氏系)は、先手をうち、中臣鎌足(藤原氏の祖)と協力し、蘇我入鹿(蘇我氏三代目)を殺害します。

その後、蘇我蝦夷(蘇我氏二代目)も自害に追いやられ、ここに蘇我氏は滅びました。舒明天皇の息子(古人大兄皇子、蘇我氏系)にも謀反の疑いがかかり、滅ぼされました。

天智天皇(第38代、中大兄皇子、非蘇我氏系)は、このクーデターが皇位目的ではないことを示すため、皇極天皇(第35代、第37代、女性、天智天皇の母)からの皇位継承を拒否します。その結果、皇位は孝徳天皇(第36代、50歳)に継承されます。

この皇位継承は、日本史史上初の生前譲位です。

孝徳天皇(第36代)のもと、天智天皇(第38代、中大兄皇子)は、聖徳太子が理想とした天皇を中心とする国家を作り上げようとしましたが、氏族らによる既得権益(賄賂による人事や裁きの慣習など)の壁が非常に高く、なかなかうまくいきませんでした。

孝徳天皇(第36代)の時代、中国の唐に攻められた朝鮮半島の百済から助けを求められた天智天皇(第38代、中大兄皇子)は白村江の戦いをおこしますが、敗戦してしまいます。このときはじめて九州福岡に防衛拠点としての大宰府が設置されます。

天智天皇(第38代、中大兄皇子)は、孝徳天皇(第36代)の崩御後も即位せず、皇極天皇(第35代、第37代、女性、天智天皇の母)が崩御して、ようやく即位しました。

しかし、白村江の戦いで困窮した財政を立て直すことができず、人民の不満を買います。

天智天皇(第38代、中大兄皇子)の後継者は、当初は、弟である天武天皇(第40代、大海人皇子)の予定でした。

ところが、天智天皇(第38代、中大兄皇子)に弘文天皇(第39代、大友皇子)が生まれると、天智天皇(第38代、中大兄皇子)は弘文天皇(第39代、大友皇子)に皇位を継承してしまいます。

天武天皇(第40代、大海人皇子)は潔く身を引きましたが、天智天皇(第38代、中大兄皇子)が崩御すると、弘文天皇(第39代、大友皇子)は人望のある天武天皇(第40代、大海人皇子)を滅ぼそうとします。

こうして天武天皇(第40代、大海人皇子)を支持する派(こちらが天皇に対抗する賊軍です)と、弘文天皇(第39代、大友皇子)を支持する派(皇軍)の間で争いが勃発します。

この戦いの結果、弘文天皇(第39代、大友皇子)は自害に追いやられます。

これは賊軍が皇軍に勝利した(賊軍についた兵士のほうが皇軍についた兵士の数より多かった)稀な戦いです。

こうして天武天皇(第40代、大海人皇子)が天皇に即位します。

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天武天皇(第40代、大海人皇子)は、聖徳太子が理想としていた天皇を中心とする国家の体系を少しづつ整えていきます。

また、天武天皇(第40代、大海人皇子)は国史の編纂(「古事記」や「日本書紀」の編纂)を推進し、このときはじめて「日本」という国号や「天皇」という称号を制定したと伝えられています。

天武天皇の崩御後、天武天皇の妃であった持統天皇(第41代、女性) は、天武天皇の皇子(草壁皇子) に皇位を継承させたいと考えていました。ところが草壁皇子 は、その兄(大津皇子、草壁皇子の異母兄弟)との間に発生したトラブルのためになかなか皇位を継ぐことができませんでした。草壁皇子より優秀かつ人望もあった草壁皇子の兄(大津皇子、草壁皇子の異母兄弟)が自害し、その事件に草壁皇子の関与が疑われたからです。

そうこうするうち、草壁皇子は皇位を継ぐことなく早世してしまいます。

皇位継承者が相次いで亡くなるという危機でしたが、ここは、草壁皇子の母(天武天皇の皇后、天智天皇の娘)である持統天皇(第41代、女性)が即位することで乗りきりました。

持統天皇(第41代、女性)は日本で初めての宮廷の都、藤原京(奈良)を建設します。

持統天皇(第41代、女性)は、天武天皇の孫(草壁皇子の息子)である文武天皇(第42代、15歳)への生前譲位に成功します。

その後、ようやく大宝律令が完成し、ここに聖徳太子が理想としていた天皇を中心とする(宮廷の都~朝廷~を行政府とする)国家の体系がようやく整いました。

大宝律令で定められた軍事的職能集団が、その後、武士とよばれるようになります。

文武天皇(第42代、25歳)が早逝すると、その王子であった聖武天皇(第45代、6歳)はまだ若かったため、 元明天皇(第43代、女性、草壁皇子の皇妃、天智天皇の娘)が皇位を継承します。

元明天皇(第43代、女性)は、藤原京(奈良)を平城京(奈良)に遷都します。大宝律令により行政府が肥大化し、藤原京では手狭になったためです。ここからが奈良時代です。

このころから、中臣鎌足の子孫である藤原氏が朝廷内で重要なポストを占めるようになり、貴族世界に台頭していきます。

元正天皇(第44代、女性、天武天皇の孫)は、日本書紀を完成させます。

聖武天皇(第45代)の皇后は藤原氏出身で、はじめての非皇族皇后となったことで有名な光明子(藤原氏)です。

光明子(藤原氏)は、人民どうしの争いや不満、人々の不安を解消したいという一心から、仏教に傾倒し、奈良の大仏を建立します。

このころ鑑真が中国より日本へ渡り、仏教の信仰に規範や認証制度をもたらします。

聖武天皇(第45代)には男児が授からず、天武天皇の系統は孝謙天皇(第46代、第48代、女性)で途絶えてしまいます。

孝謙天皇(第46代、第48代、女性)は、あろうことかその皇位を自分の愛人である民間人(僧侶)に譲ろうとします。が、危機一髪で阻止されました。

当時の政治は、仏教の理念にも大きな影響をうけており、政務にかかわる僧侶も増えていたのです。それどまでに仏教の影響が大きくなっていました。

天武天皇の系統が孝謙天皇(第46代、第48代、女性)で途絶えると、話し合いで光仁天皇(第49代、白壁王)が即位しました。

ちなみに、光仁天皇(第49代、白壁王)の皇后(桓武天皇の母)は百済王家の子孫です。

桓武天皇(第50代)は、平安京(京都)に遷都します。あまりにも強大と化した仏教(奈良)の影響から距離をおくためです。ここからが平安時代です。この平安京(京都)は、東京遷都(1869年)まで朝廷として存続します。

桓武天皇(第50代)は、東北地方の平定に成功します。

このときはじめて天皇の命による征夷大将軍が任命されました。

このころより、しだいに武士が力をつけていきます。ちなみに・・・平清盛に代表される武士集団である桓武平氏は桓武天皇(第50代)を祖とし、源頼朝に代表される武士集団である清和源氏は清和天皇(第56代)を祖とします。

また、このころ中国より帰国した最澄と空海により、仏教より以前のバラモン教のマントラ、すなわち加持祈祷をおこなう密教(天台密教、真言密教)が日本に伝えられ、その総本山となる延暦寺、金剛峯寺が建立されます。

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仁明天皇(第54代)の後は、淳和天皇(第53代)の皇子が即位する予定でしたが、藤原氏の画策により、仁明天皇の皇子である文徳天皇(第55代)が即位します(承和の変)。

文徳天皇が急逝(31歳)すると、わずか9歳の清和天皇(第56代、9歳)が即位しました。

藤原氏は摂政(天皇が女性、こども、病気であるときに、天皇にかわって政務をとりしきる役)となりました。

こうして藤原氏が政治の実権を掌握するようになったのです。

清和天皇(第56代、26歳)は、陽成天皇(第57代、9歳)に生前譲位します。清和天皇(第56代) は、おそらく藤原氏による影響を排除しようと試みたのでしょう。しかし、その清和天皇(第56代)は31歳で崩御してしまい、結局、藤原氏が摂政(天皇が女性、こども、病気であるときに、天皇にかわって政務をとりしきる役)を続けることになります。

その後、陽成天皇(第57代)は藤原氏との対立に巻き込まれ、わずか17歳で退位に追いやられます。

その後は、藤原氏の意向に沿う光孝天皇(第58代)が皇位を継承します。

そうして、ついに藤原氏は、関白(天皇が成人であっても、天皇にかわって政務をとりしきる役)となります。

このころ、皇室から離脱する氏族(藤原氏、源氏、平氏、橘氏)も増え、朝廷の要職はほぼそれらの氏族によって独占されることになります。

その中でも、藤原一族(中臣鎌足の子孫)による外戚の影響は最大派閥で、のちの九条、近衛、鷹司、二条、一条などはすべて藤原の一族がその居住地を冠したものです。

このころ、天才、菅原道真があらわれ、氏族出身ではないにもかかわらず、宇多天皇(第59代)、醍醐天皇(第60代)に抜擢され出世街道を上りつめます。そして右大臣になりましたが、そこで藤原氏に睨まれ、大宰府へ左遷されることになります。

また、醍醐天皇(第60代)にも優秀な男子が生まれ(源高明。光源氏のモデル?)、出世街道を昇りつめ左大臣となりましたが、藤原氏に睨まれ、大宰府へ左遷されます。

このころになると大宝律令による弊害が目立ち始めます。朝廷の要職は藤原氏一族にことごとく独占され、藤原氏ばかりがいい暮らしをし、地方は地方で朝廷から派遣された横暴な役人がやりたい放題、国民は重税で苦しむようになっていました。

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朱雀天皇(第61代、12歳)の時代、ついに平将門(大宰府に左遷された菅原道真の子孫という噂も?)が腐敗した律令政治にブチ切れて、関東を拠点として朝廷に反旗を翻します。しかしこれは桓武平氏の祖である平貞盛らによって鎮められました(平貞盛の血統は平清盛に続きます)。 同じ頃、瀬戸内海でも反乱がおこりますが清和源氏の祖である源経基らによって鎮められました(源経基の血統は源頼朝に続きます)。

その後、藤原氏は摂政、関白の地位を欲しいままにし、天皇の皇位は、まさに藤原氏の思うががままに継承されていきます。たとえば、冷泉天皇(第63代)の弟は、藤原氏ではない女性(源高明の娘)を皇后に迎えたため、藤原氏に睨まれ天皇になれませんでした。

藤原氏の影響力がどれほどすざましかったかを最高権力者に登りつめた藤原道長を例にとってみると、藤原道長の姉と妹は、それぞれ円融天皇(第64代)と冷泉天皇(第63代)の妻となり、それぞれ一条天皇(第66代)と三条天皇(第67代)の母となります。また藤原道長の娘(藤原彰子)は、一条天皇の妻となり、その結果、後一条天皇(第68代)および後朱雀天皇(第69代)の2代続く天皇の母となりました。またほかの娘たちは、後一条天皇(第68代)や三条天皇(第67代)に嫁ぎました。

ちなみに、一条天皇(第66代)の2人の皇后(藤原定子、藤原彰子)に仕えたのが、あの清少納言(藤原定子に仕官、枕草子の著者)と紫式部(藤原彰子に仕官、源氏物語の著者)です。

ところが、いくらなんでもさすがの藤原氏であっても、女子の数に限界をきたすと、ついに藤原氏を母としない後三条天皇(第71代)が即位します。すると藤原氏を中心とした状況に変化が生じはじめます。

後三条天皇(第71代)は、ここぞとばかりに藤原氏のポストを減らし、藤原氏の土地を没収し、藤原氏の力を弱体化させたのです。

また、後三条天皇(第71代)は、藤原氏ではない源氏(村上源氏)との間に男子を2人もうけ、白河天皇(第72代、18歳)に次の皇位継承を託します。

ところが、白河天皇(第72代、34歳)はその遺志を継がず、自分と藤原氏との間に生まれた堀河天皇(第73代、8歳)に皇位を継承してしまいます。

しかし藤原家の力は復活しませんでした。どういうことかというと・・・

白河天皇(第72代、34歳)は、自ら、天皇家の家長(治天の君)として幼い天皇を後見したのです。清和天皇(第56代)がやろうとしたことです。

このアイデア(院政と言います)により、白河天皇(第72代、34歳)は、藤原氏の影響をうけない皇位継承に成功し、かつ、政治の実権(役人の人事権や命令権、拒否権)を掌握しつづけることに成功しました。

政治的実権を失い、かつ、皇位継承にも口出しできなくなった藤原氏の勢力は次第に弱くなっていきます。

その後、白河天皇(第72代)は、鳥羽天皇(第74代、4歳)を即位させ、次に崇徳天皇(第75代、5歳)を即位させ、院政を続けます。

白河天皇の崩御後は、白河天皇の崩御後は、鳥羽天皇(第74代、26歳)が家長(治天の君)として院政を続けました。

鳥羽天皇(第74代、26歳)は、院政をはじめると、すぐに崇徳天皇(第75代、22歳)を退位させ、近衛天皇(第76代、3歳)を即位させました。

崇徳天皇(第75代、22歳)は鳥羽天皇(第74代、26歳)が後見するには年齢的に幼くありません。

しかし、鳥羽天皇(第74代)が崇徳天皇(第75代)を退位させたのには年齢的な理由以外に私的な理由があったようです。

実は、崇徳天皇(第75代)は鳥羽天皇(第74代)の息子ではなく、白河天皇(第72代)の息子!?というとんでもないウワサがあったのです。これが真実なら、鳥羽天皇(第74代)が家長(治天の君)として崇徳天皇(第75代)を後見する正当性が失われます。

しかも、絶世の美女といわれた鳥羽天皇(第74代)の妃がなんと白河天皇と密通して生まれたのが崇徳天皇(第75代)とか。そんな事情もあってか、鳥羽天皇(第74代)は、自分の皇子ではないかもしれない崇徳天皇(第75代)を冷遇したと言われています。

しかし、近衛天皇(第76代)が17歳で早逝すると、崇徳天皇(第75代)の息子と、後白河天皇(第77代)の息子(二条天皇(第78代))の間で次の皇位をめぐる争いが勃発しました。

このとき鳥羽天皇(第74代)は、後白河天皇(第77代)の息子(二条天皇(第78代))を自分の後継者として考えていました。

しかし、二条天皇(第78代)はまだ若く、二条天皇(第78代)が即位するまでの「中継ぎ」として即位したのが、二条天皇の父、後白河天皇(第77代、29歳)だったのです。

しかし鳥羽天皇(第74代)は、後白河天皇(第77代)を「天皇の器量ではない」と考えており、後白河天皇(第77代)の皇位は二条天皇(第78代)が成人するまでの約束でした。

こうして後白河天皇(第77代)が即位し、鳥羽天皇(第74代)は院政を続けます。

自分の息子に皇位を継承するチャンスがなくなった崇徳天皇(第75代)は、鳥羽天皇(第74代)を恨んでいたとされてます。

ところが鳥羽天皇(第74代)は、二条天皇(第78代)が成人(即位)する前に崩御してしまいます。

すると、崇徳天皇(兄)と後白河天皇(弟)の対立が表面化します。

この争いは、源氏と平氏による支持をうけた後白河天皇(第77代)が勝利し、崇徳天皇(第75代)は讃岐に流されました(保元の乱)。

この争いで、平氏と源氏など武士が勢力をのばします。一方、貴族としての藤原氏の勢力はますます弱くなりました。

武士の中で特に名をあげたのが平清盛です。

公家の力が弱まり、次第に軍事政権の怖れが高まります。

二条天皇(第78代、後白河天皇の息子)が15歳になると、後白河天皇(第77代)は、鳥羽天皇(第74代)との約束通り、二条天皇(第78代)に皇位を譲ります。

こうして後白河天皇(第77代、32歳)による院政がはじまりました。

朝廷内では、院政を嫌う二条天皇派と、院政を好む後白河天皇派が対立するようになりました。

二条天皇派は平氏の助けを借り、後白河天皇派は源氏の助けを借り、争いに発展しました。

これには二条天皇側が勝利しました(平治の乱)。

この争いで、平清盛が源氏の棟梁である源頼朝の父を破り、武士の頂点に立ちました。

後白河天皇による院政は停止され、二条天皇が政務を取り仕切ることに成功しました。しかし、こうなるとどうしても平氏(平清盛)の影響を受けた政治にならざるをえません。

その二条天皇(第78代、後白河天皇の息子)も22歳で早逝してしまいます。

二条天皇(第78代)が亡くなる直前に即位したのは、二条天皇の皇子である六条天皇(第79代、2歳、後白河天皇の孫)です。しかし、まだ、わずか2歳でした。

一方、二条天皇の早逝により院政の復活に成功した後白河天皇(第77代、39歳)ですが、二条天皇派に支持されている六条天皇(第79代)の後見は容易ではありませんでした。

二条天皇を支えてきた平清盛も後白河天皇(第77代、39歳)による院政の復活を面白く思っていませんでした。

平清盛は、六条天皇(第79代、後白河天皇の孫)の次期最有力候補者(以仁王、後白河天皇の息子、優秀で人望も抜群 )を策略により失脚させます。

後白河天皇(第77代)は、二条天皇の息子である六条天皇(第79代、後白河天皇の孫)を5歳で退位させ、自分の息子である高倉天皇(第80代、8歳)を即位させました。

しかし、高倉天皇(第80代、8歳)の母は平氏(平清盛の義理の妹)でもあり、この皇位継承は平氏にとっても好都合だったのです。

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平清盛は、さらに自分の娘を高倉天皇(第80代、12歳)の正妻とします。

平氏の勢力がのびるとともに、一方で、源氏の勢いは弱くなっていきました。

後白河天皇(第77代)は、勢力が強くなりすぎた平氏と対立するようになります。

1179年、平清盛によるクーデターにより、ついに後白河天皇(第77代、53歳)は政治の実権(役人の人事権や命令権、拒否権)を失い、幽閉されます。後白河天皇(第77代)による院政は停止されました。

軍事クーデターによる軍事政権の樹立です(六波羅幕府)。しかし政治のシステム的にはまだ天皇を中心とする体制を受け継いでいました。

1180年、平氏(平清盛)は、高倉天皇(第80代)の皇子である安徳天皇(第81代、満1歳、平清盛の孫)を満1歳で即位させます。

安徳天皇(第81代、満1歳、平清盛の孫)の後見人となり、院政をとったのは高倉天皇(第80代、19歳)です。その正妻は平清盛の娘ですから、実質、完全に平氏の世となったも同然でした。源氏は平氏に反発します。

しかし、高倉天皇(第80代、19歳)の父親は後白河天皇(第77代)です。高倉天皇(第80代、19歳)は平清盛と平清盛によって幽閉されている父、後白河天皇(第77代)のあいだに挟まれた形となりました。

1180年、高倉天皇(第80代、20歳)は病に倒れ崩御していまいます。

1181年、平清盛も高熱による病(マラリア?)に倒れ病没します。

ここで、後白河天皇(第77代、55歳)の院政が復活します。

1183年、後白河天皇(第77代)は源氏(源頼朝)と結び、平氏を京都から追い落とすことに成功します。

このとき、安徳天皇(第81代、4歳)は、三種の神器をもったまま平氏(母、祖母)に連れられ都落ちします。

都(京都)では、天皇不在となることを避けるため、後白河天皇(第77代)は自身の宣言により、神器のないまま後鳥羽天皇(第82代、3歳)を即位させます。

後白河天皇(第77代)は、後鳥羽天皇(第82代、3歳)の後見人となり、院政を続けます。

つまり、この期間は、同時に2人の天皇が存在することになります(安徳天皇と後鳥羽天皇)。

1185年、後白河天皇(第77代)は源氏(源頼朝)と結び、平氏を滅ぼします(源平合戦 ~ 壇ノ浦の戦い)。

このとき、安徳天皇(第81代、6歳)は、祖母に抱かれて壇ノ浦に入水、6歳で崩御しました。このとき三種の神器(勾玉、鏡、剣)のうち剣が失われたとされます。

その後、後鳥羽天皇(第82代、4歳)が唯一の天皇となりますが、宝剣を失った後鳥羽天皇(第82代)は、そのことに強いコンプレックスをもっていたと言われています。

1192年、後白河天皇(第77代、66歳)が崩御します。

その後、後鳥羽天皇(第82代、11歳)の後見人となったのは、関白(天皇が成人であっても、天皇にかわって政務をとりしきる役)をつかさどる九条家でした。

九条家(関白)は妃を後鳥羽天皇(第82代)におくりますが皇太子が生まれず、勢力をのばすことができませんでした。

平氏滅亡、後白河天皇(第77代、66歳)の崩御により、源氏(源頼朝)の力は強大化しました。

また、このころ法然と親鸞により、インドの龍樹を祖とする念仏(浄土宗、浄土真宗)が広められ、知恩院、本願寺が建立されます。その後、中国より帰国した栄西と道元により、インドのダルマ、中国の智顗(ちぎ)を祖とする禅宗(臨済宗、曹洞宗)が日本に伝えられ、建仁寺、永平寺が建立されます。

1192年、源頼朝は、後鳥羽天皇(第82代、11歳)により大将軍(征夷大将軍)に任ぜられます。

新たな軍事政権の樹立です(鎌倉幕府)。

鎌倉幕府は、天皇を中心とする政治のシステムに大きな変革を加えていきます。

一方、朝廷としては軍事政権を認めるつもりはなく、後鳥羽天皇(第82代)は幕府打倒を虎視眈々と狙っていました。

1198年、後鳥羽天皇(第82代、17歳)は、藤原氏からの妃との間に生まれた土御門天皇(第83代、2歳)に譲位し、院政を開始します。

1210年、続いて、後鳥羽天皇(第82代)は、土御門天皇(第83代)から順徳天皇(第84代、14歳)へ譲位させ、さらに院政を続けます。

このとき、伊勢神宮より後白河天皇(第77代)におくられていた神剣(1183年)が新たな宝剣と定められました。

1219年、鎌倉軍事政権内部の争いで、源氏が北条氏(平氏系)に滅ぼされます。

この機をチャンスとみた後鳥羽天皇(第82代)は自分の息子を将軍にしようとしましたが失敗。

以後、朝廷と北条氏(平氏系)は対立するようになります。

1221年、後鳥羽天皇(第82代)は、自分の意に沿わない北条氏(平氏系)を討伐しようと挙兵します。

順徳天皇(第84代)も、仲恭天皇(第85代、4歳)へ譲位の後、討幕に参戦します(承久の乱)。

この戦いは北条氏(平氏系)の勝利に終わり、後鳥羽天皇(第82代)は隠岐に流されます(後にその地で崩御)。順徳天皇(第84代)も佐渡島に流されます。討幕に反対していた土御門天皇(第83代)も土佐に流されます。

天皇が武士(北条氏)に裁かれるという前代未聞の事態でした。

1221年、仲恭天皇(第85代)は、鎌倉幕府によって退位させられ、その後は、後鳥羽天皇の系統ではない後堀河天皇(第86代、10歳)が即位します。

後堀河天皇(第86代、10歳)の後見人となったのは、後鳥羽天皇との皇位継承争いに負け、すでに出家していた後堀河天皇(第86代、10歳)の父親ですが、わずか2年で病死、その後の後見人になったのは関白(天皇が成人であっても、天皇にかわって政務をとりしきる役)をつかさどる九条家です。

しかし九条家(関白)では北条氏(平氏系)の力にかないません。

朝廷内の人事権、紛争解決権力を掌握していたのは実質的に鎌倉幕府でした。

京都には朝廷を監視する幕府の機関(六波羅探題)が設置されます。

その後、後堀河天皇(第86代、21歳)は、四条天皇(第87代、2歳)を即位させ、院政を開始しましたがその2年後に崩御してしまいます。

四条天皇(第87代)の後見人になったのは関白(天皇が成人であっても、天皇にかわって政務をとりしきる役)をつかさどる九条家です。

しかし、実質的な権力は鎌倉幕府が掌握し続けます。

しかし、四条天皇(第87代)は12歳で崩御し、皇子が生まれていなかったため、この系統が途絶えます。

その後、九条家の推す順徳天皇の系統と幕府の推す土御門天皇の系統の間で皇位継承争いが勃発し、10日間ほどの空位が生じましたが、ここは平和的な話し合いの結果、土御門天皇の系統である後嵯峨天皇(第88代、24歳)が即位します。

このように皇位継承にも鎌倉幕府の意向が強く影響していました。

1246年、後嵯峨天皇(第88代)は、後深草天皇(第89代、2歳)へ譲位し、院政をはじめます。

1260年、後嵯峨天皇(第88代)は、亀山天皇(第90代、10歳)を即位させ、院政を続けます。

この時代の院政は、それまでの院政と異なり、鎌倉幕府による影響を非常に強くうけていたと言われています。

1272年、幕府との争いを極力避けたかった後嵯峨天皇(第88代、51歳)は、その後の皇位継承のすべてを幕府にまかせて崩御します。

その結果、後深草天皇(持明院統、第89代、28歳)と亀山天皇(大覚寺統、第90代、22歳)との間で皇位継承争いが勃発します。

この争いにも鎌倉幕府が介入し、持明院統と大覚寺統の間で交互に皇統を系統していくという皇統分裂(両統迭立)に決着します。

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1274年、蒙古襲来

1281年、蒙古襲来

2度の蒙古襲来(元寇)により、鎌倉幕府を筆頭とする武士勢力の経済力は大きく損なわれます。

1331年、後醍醐天皇(大覚寺統、第96代、42歳)は、鎌倉幕府の倒幕と天皇親政の復活を図りましたが、失敗。後醍醐天皇(大覚寺統、第96代)は隠岐に流され退位し、光厳天皇(持明院統、後伏見天皇(持明院統、第93代)の皇子、19歳)が即位します。

1332年、後醍醐天皇(大覚寺統、第96代) の倒幕作戦に加担していた楠木正成(橘氏系)が大阪を制圧します。鎌倉幕府はこれに大軍を向けますが、楠木正成はこれを撃退し互角に戦います。これに触発され全国で反幕府軍が次々と決起。一連の作戦から、楠木正成は、日本史上最大の軍事的天才といわれています。

1333年、後醍醐天皇(大覚寺統、第96代、44歳)は、隠岐を脱出。楠木正成(橘氏系)とともに再び倒幕軍を挙兵します。これに呼応するように、幕府軍から足利尊氏(源氏系)と新田義貞(源氏系)が倒幕に寝返り、ついに北条氏(平氏系)は滅ぼされます。

こうして鎌倉幕府は滅亡しました。

後醍醐天皇(大覚寺統、第96代)は、光厳天皇(持明院統)を退位させるだけでなく、1331年の自らの退位と光厳天皇の即位そのものを取り消し、皇統を大覚寺統に統一しました。

ここに皇統分裂(両統迭立)は解消し、天皇親政が復活しました。

ところが、天皇親政のもとで武士は冷遇され、公家ばかりが厚遇されたため、抑圧された武家の間に猛烈な反感が高まりました。

1335年、足利尊氏(源氏系)は、退位させられていた光厳天皇(持明院統)を後ろ盾とし、後醍醐天皇(大覚寺統、第96代)に反旗を翻します。

楠木正成(橘氏系)は後醍醐天皇(大覚寺統)を支持しますが、無理な作戦を強いられ、足利尊氏(源氏系)に敗れます。

1336年、後醍醐天皇(大覚寺統)は、足利尊氏(源氏系)によって都から追われ、三種の神器をもったまま吉野へ下りました。

足利尊氏(源氏系)は、1331年に天皇となったことがある光厳天皇(持明院統、北朝第1代)を天皇家の家長(治天の君)に推薦し、光厳天皇(持明院統、北朝第1代)の宣言により、神器のないまま光明天皇(持明院統、北朝第2代、光厳天皇の弟、15歳)を擁立します。後鳥羽天皇(第82代)の即位方式にならったとされています。これが北朝の始まりであり、光厳天皇による院政の開始です。

後醍醐天皇(大覚寺統、第96代、南朝第1代)は、北朝を否定し、自身の皇統の正当性を主張します(北朝に対し南朝とよばれます)。

以後、同時に2人の天皇がいるという異常事態(交互にではなく同時に2人)~ 南北朝時代 ~ が58年続きます。

こうしたことから、足利尊氏(源氏系)は、後醍醐天皇(大覚寺統)に刃向かい、勝手に北朝をはじめた天下の逆賊とみる考え方もあります。

新田義貞(源氏系)は後醍醐天皇(大覚寺統)のために戦いましたが、足利尊氏(源氏系)に敗れます。

1338年、足利尊氏は、光明天皇(持明院統、北朝第2代)により征夷大将軍に任じられ、軍事政権を樹立します(室町幕府)。

1339年、後醍醐天皇(第96代、大覚寺統、南朝第2代、52歳)は失意のうちに吉野にて崩御し、御村上天皇(第97代、大覚寺統、南朝第2代)が即位します。

1351年、足利尊氏は南朝(大覚寺統)と和睦し、北朝(持明院統)はいったん廃止されます。

1352年、しかしこの和睦は形式的なものであったため、再び南北朝に分裂しました。

1392年、足利義光の和平案により、ようやく南朝(大覚寺統)の後亀山天皇(第99代、南朝第4代)から北朝(持明院統)の後小松天皇(第100代、北朝第6代、16歳)へ三種の神器が受け継がれ、ついに南北朝が統一されます。

しかし皇統はすでに分裂していたためその後の皇統は交互に系統していく両統迭立の約束でした。

ちなみに、北朝6代の天皇のうち、後小松天皇(第100代、北朝第6代)を除く5人(北朝第1代の光厳天皇を含む5人)は、通常、126代の歴代天皇に含まれません。

1393年、後小松天皇(第100代、北朝第6代、16歳)の後見人として院政をしいていた後円融天皇(持明院統、北朝第5代)が崩御すると、室町幕府第3代将軍、足利義満は、自らが院政を開始。天皇のほぼすべての権限を継承してしまいます。足利義満には天皇を自宅に招いて政務をおこなうほどの力がありました。

1396年、足利義満は、中国に使節をおくり、中国より日本国王の称号を与えられます。足利義満は自分の妻を後小松天皇(第100代、北朝第6代)の母に擬します。その後、息子を皇位につけることにより、足利家を天皇家にしようとしていたのではないか?と考えられています。しかし日本皇統の皇位継承は男系を鉄則とするためこの目論見は皇統開始以来初の皇位剥奪に該当します

1408年、足利義満、急逝します。

1412年、南北朝統一以降、交互に皇統を系統していく両統迭立の約束でしたが、幕府の策略により、後小松天皇(第100代、北朝第6代)は、皇位を北朝(持明院統、自分の息子)に譲位、院政を開始します。

この約束違反により、南朝(大覚寺統)の皇統は絶たれ、その後、北朝(持明院統)が皇統を継代することになります。

以後、この王朝が現在まで続いています。

1467年、応仁の乱がはじまり、戦国時代へはいります。

1573年、室町幕府が滅亡します。

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