「お市の方」と室町幕府の終焉
天皇の先祖にもあたる「お市」の方。戦国時代No.1の美女ともいわれます。
その人生は壮絶でした。
北川景子
室町幕府第3代将軍、足利義満の時代。
幕府を守る守護大名の軍事力は強大で、幕府に反抗しようとする勢力は皆無でした。
政権はきわめて安定していたのです。
しかし外敵なくなれば内輪で揉める・・・というのはいつの時代でも同じで。
第4~5代将軍の時代になると守護大名どうしが揉め事をおこし始め、次第にその解決が不調に終わるようになります。
守護大名に力を与えすぎたことが幕府にとって裏目にでたのです。
いつの間にか、室町幕府の軍事経済力 ≒ 守護大名の軍事経済力
となってしまい、守護大名をいさめる力が幕府から失わてしまったのです。
そして、ついに誰も止めることができない守護大名同士の壮絶な争いが勃発します。
これが応仁の乱(1467年)です。
この内乱は幕府を巻き込み、1467年から11年も続きました。
応仁の乱は天下取りをめぐる争いではありません(戦国時代との違い)。
あくまで守護大名どうしの争いです。
守護大名は、強い幕府の権威を利用して自分の言い分を正当化する必要がありました。
幕府には強くあってもらわなければならなかったのです。
幕府の権威が落ちてしまうと、幕府によるお墨付き、という正当性が弱くなってしまいます。
しかしこの内乱によって幕府(将軍)の権威は徐々に失われていきました。そして、ついに・・・
1493年、幕府内で細川家(四国~大阪~京都)によるクーデターがおこります。
細川家(四国~大阪~京都)の言うことをきかない第10代将軍が退任させられたのです。第10代将軍は越中(富山)に身を引きました。
これにより幕府の管領職(将軍につぐ最高位)は、細川家がほぼ独占することになりました(細川政権)。
ここからが戦国時代の始まりと言われています。
1494年、幕府で政治的実権(重要なポストの人事権など)を握った細川家(四国~大阪~京都)は、新しく第11代将軍を擁立します。
一方、応仁の乱で守護大名が京都に駆り出されている間、地方で留守を守っていた有力な家臣(いわゆる、戦国大名)たちも、それまでのボス(守護大名)の地位を奪うようになります(下剋上)。
こうして地方でも、守護大名にかわる戦国大名による新たな地方政権が続々と誕生しはじめます。
織田信長は、そういう戦国大名の一人です。
1508年、越中(富山)に身を引いていた第10代将軍が、京都に進軍します。
第11代将軍は京都から追放されます。こうして第10代将軍(2期目)が復帰します。しかし、
1521年、第10代将軍(2期目)は、またも細川家(四国~大阪~京都)によって追放されます。
細川家(四国~大阪~京都)が支配する幕府のもとで第12代将軍となったのは、第11代将軍の長男(11歳)でした。
1546年、細川家(四国~大阪~京都)と、その家臣である三好家(徳島)の抗争が激化します。
抗争に巻き込まれた第12代将軍(35歳)は、後の第13代将軍、足利義輝とともに京都を離れ近江(滋賀)に避難します。
1546年、第12代将軍(35歳)は、近江(滋賀)の地で、第13代足利義輝(10歳)に将軍職を譲ります。
1547年、織田信長の妹 「お市」がこの世に生をうけたのはこの頃です。 織田信長13歳のときです。
1549年、細川家(四国~大阪~京都)は、その家臣である三好家(徳島)との抗争に敗れ、幕府(京都)を奪われます。
四国~大阪~京都に広がる強大な三好政権が誕生し、幕府(京都)の実権は三好家(徳島)が掌握しました。
細川家(四国~大阪~京都)は、近江(滋賀)で将軍となっていた第13代将軍足利義輝(13歳)と手を結びます。
こうして第13代将軍足利義輝は、三好政権と対立します。
1558年、三好政権は、細川家(四国~大阪~京都) を攻撃し、完全に没落させます。
第13代将軍足利義輝(22歳)は三好政権と和睦します。
第13代将軍足利義輝(22歳)は近江(滋賀)から京都に復帰します。
このころ尾張(愛知)では、守護大名(斯波家)の家臣であった織田信長(24歳)が戦国大名となり、頭角を現します。
1560年、織田信長(愛知、26歳)は今川家(静岡)との戦いに勝利します(桶狭間の戦い)。
今川家(静岡)に人質となっていた徳川家康(浜松、17歳)は解放され、織田信長と同盟を結びます。
1561年、浅野(あさの)長政(茨木)の義理の妹、寧々(北政所、高台院)が秀吉の正室となります。
ときに勘違いされますが、浅野(あさの)長政(茨木)は、のちに「お市」が嫁ぐことになる浅井(あざい)長政(滋賀)とは違う人物です。
1564年、第13代将軍足利義輝(28歳)と三好政権が対立しはじめます。
1565年、織田信長(31歳)が尾張(愛知)を統一します。「お市」18歳のときです。
1565年、第13代将軍足利義輝(29歳)が三好政権によって殺害されます。
この三好政権の暴挙には、多くの戦国大名が反発し、反三好勢力が形成されます。
後の15代将軍、足利義昭(28歳)も三好政権に命を狙われましたが、越前(福井)の朝倉義景(33歳)のもとに退避し難を逃れます。
空きポストとなった第14代将軍職をめぐって、足利義栄(13代将軍足利義輝の従兄弟)と足利義昭(13代将軍足利義輝の弟)による後継者争いとなります。
三好家が推したのは足利義栄です。一方、反三好派は、足利義昭を推します。足利義昭 は、朝倉義景(福井) のもとに身をひいていました。
1567年、朝倉義景(福井)と同盟している近江(滋賀)の浅井(あざい)長政(22歳)に「お市」が嫁ぎます。「お市」20歳のときでした。
織田信長(33歳)は、浅井(あざい)長政(22歳)と同盟を結びます。
「お市」は、浅井(あざい)長政との間に、3人の娘、茶々(後に秀吉の側室となる、淀)、お初(後に京極高継の正室となる)、お江(後に江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の継室となる)をもうけます。
足利義昭は、朝倉義景の軍勢をたよって京都に戻り、第14代将軍に就こうとします。しかし朝倉義景はこの作戦に二の足をふみます。なぜなら京都への進軍は、三好政権との戦いを意味するためです。朝倉義景は三好家との争いに勝算を見出せませんでした。
そこで足利義昭は、織田信長を頼ります。
そうこうするうち・・・
1568年、三好家に担がれていた足利義栄(30歳)が第14代将軍になります。
1568年、織田信長(34歳) は、この第14代将軍就任に反抗の意を表し、ついに足利義昭とともに京都に進軍します。するともともと体が病弱であった第14代将軍足利義栄はあっけなく病死してしまいます。
京都を制圧していた三好政権側の軍勢は、ほぼ戦わずして織田信長に京都を明け渡します。
1568年、織田信長(34歳)に推挙された足利義昭(31歳)が室町幕府第15代将軍となります(室町幕府最後の将軍です)。
1569年、織田信長(35歳)によって三好家は徳島に戻され、三好政権は崩壊、三好家は幕府の従属下におかれます。
1570年、織田信長(36歳)は、朝倉義景(38歳)と同盟を結ぼうとしますが、拒否されます。朝倉義景は、自分にかわって京都に上洛した織田信長の躍進を快く思っていませんでした。
1570年、織田信長(36歳)は徳川家康(27歳)とともに、朝倉義景(38歳)を討伐する軍をあげます。
このとき「お市」の嫁ぎ先である浅井(あざい)長政(25歳)は、織田信長と同盟を結んでいたにもかかわらず織田信長に反旗を翻します。
当初、織田信長はこの翻意をにわかには信じなかったようです。なぜなら、浅井(あざい)長政の正室は「お市」だったからです。
しかし、もともと浅井(あざい)長政と朝倉義景は同盟関係にあり、浅井(あざい)長政 は織田信長との同盟よりこちらを優先したのです。
織田信長はその後、3年間、朝倉義景、浅井(あざい)長政と戦うことになります(姉川の合戦など)。
浅井(あざい)長政に嫁いでいた「お市」の気持ちは複雑だったと思います。
1571年、朝倉義景(福井)、浅井(あざい)長政(滋賀)は、比叡山延暦寺(最澄を宗祖とする天台宗の本山)の武装僧侶団を味方につけます。
1571年、一方、三好家(徳島)も石山本願寺(親鸞を宗祖とする浄土真宗の本山)の武装僧侶団と手を結び、信長打倒の機会をうかがいます。
このころの宗教組織は、多くの信者を基盤とする大きな経済力をもとに最新の武器を大量に有し、いざとなれば大名と渡り合えるほどの強大な武装軍事組織と化すものが出現していました(比叡山延暦寺、石山本願寺など)。宗教はいつでもそうであるように、支配者に対する民衆解放というポジションをとりながら力をつけていきます。
1571年、朝倉義景、浅井(あざい)長政の軍勢を駐留させていた比叡山延暦寺が、織田信長により焼き討ちにあいます。
ただし織田信長がターゲットとしたのは、僧侶と扮した武士、または武装した僧侶たちであって、宗教(天台宗)そのものではありません。
このころより、織田信長と足利義昭が対立するようになります。
1572年、武田信玄(山梨、51歳)は、比叡山延暦寺を焼き討ちにした織田信長を凶徒とよび、同盟関係にある徳川家康(浜松、29歳)を攻めます。このとき命からがら敗走した徳川家康が恐怖のあまり逃亡中に失禁したという話は有名です。
武田信玄(山梨)が「打倒信長」の姿勢を明確にしたことで、武田信玄(山梨)、朝倉義景(福井)、浅井(あざい)長政(滋賀)、三好家(徳島)による反織田信長網が形成されます。
幕府は、織田信長につくか、反織田信長網につくかで判断を迫られます。
1573年、足利義昭(36歳)はついに織田信長(39歳)と袂を分かち挙兵します。
足利義昭は、武田信玄(山梨)、朝倉義景(福井)、浅井(あざい)長政(滋賀)、三好家(徳島)、石山本願寺(の武装僧侶) に織田信長を討つよう命じましたが・・・だれも動きませんでした。
武田信玄(山梨)は、前年の徳川家康との戦いの後、体調を崩していたのです。
朝倉義景(福井)、浅井(あざい)長政(滋賀)は、動く気配のない武田信玄(山梨)についてよいものか織田信長につくべきかで内部分裂に陥り、足利義昭の挙兵に応じることができませんでした。
1573年、ついに武田信玄(山梨、53歳)が他界します。
すると朝倉義景(福井)・浅井(あざい)長政(滋賀)連合軍から次々と離反するものがではじめます。 こうして反織田信長網はあっけなく崩壊します。
1573年、足利義昭(36歳)は、織田信長(39歳)により京を追われ、失意のもと、広島に下ります(室町幕府の終焉、安土桃山時代の始まり)。
しかし、足利義昭は広島に於いて将軍職を続けました。広島の地から、日本各地の大名(朝倉義景、浅井(あざい)長政、山口の毛利家や新潟の上杉謙信や武田家など)や石山本願寺に対して、織田信長を討つよう命じ続けたのです。
1573年、朝倉義景(福井、40歳)は、織田信長に攻められ、自害します。
1573年、浅井(あざい)長政(滋賀、28歳)も織田信長に攻められ、自害します。浅井(あざい)長政に嫁いでいた「お市」と、その3人の娘は織田信長にひきとられます。「お市」26歳です。
1573年、三好家(徳島)当主も織田信長に討たれ、三好家(徳島)は滅亡に向かいます。
1575年、武田家(山梨)が徳川家康(浜松)を攻めますが、織田信長・徳川家康(浜松)連合軍の反撃にあい逆に大打撃を被ります。こうして武田家(山梨)は弱体化していきます。
1576年、朝廷は、織田信長に右近衛大将の位を授けます。
1576年、織田信長(42歳)は、京都に近い安土に絢爛豪華な安土城を築きます。
1577年、三好家(徳島)が滅亡します。
1577年、朝廷は、織田信長に右大臣の位を授けます。
1578年、織田信長は、右大臣、右近衛大将の位を辞任します。
この辞任の理由はわかりませんが、律令制を超えた軍国(武家政権)を樹立するためには朝廷(天皇)に下ってはならないと考えたのかもしれません。織田信長は、応仁の乱以後の政権的混乱の原因は、天皇を中心とする律令制(朝廷から位を授かる制度)にあると信じていたようです。
1578年、越後(新潟)の上杉謙信(48歳)が病死します。
1580年、反織田信長網の一翼を担っていた石山本願寺が織田信長により焼き払われます。
以後、本願寺は西本願寺(龍谷山本願寺、のちに秀吉のサポートを受ける)と東本願寺(大谷派本願寺、のちに徳川家康のサポートを受ける)に分裂します。
強大な軍事力を有する宗教組織が、大名に対抗することによる政治的統治上の弊害は、織田信長でなくとも誰かが解決しなければならない問題だったのかもしれません。
1581年、朝廷は、織田信長に左大臣の位を推薦しましたが、織田信長は辞退します。
1582年、織田信長(48歳)と徳川家康(浜松、39歳)連合軍が、武田家(山梨)を滅ぼします。
1582年、朝廷は、織田信長に征夷大将軍の位を授けることを内定します(三職推任)。しかし織田信長にはその決定はまだ伝えられていませんでした。
1582年、織田信長は、ついに第15代将軍足利義昭を討伐することとします。戦乱がいつまでも収束しない原因は、広島で将軍職を続けている足利義昭にあるとみたのです。ところが。
1582年、明智光秀(岐阜、66歳)の謀反により、織田信長(48歳)は自害に追いやられます(本能寺の変)。
明智光秀の謀反の理由は、今もよくわかっていません。足利義昭が関与した可能性もあります。朝廷が関与した可能性もあります。
しかし、その後、織田信長の消息が不明であったため、もしかすると織田信長はまだ生きているのでは?と考える武将が多く、 明智光秀は孤立しました。
明智光秀は秀吉(45歳)によりあっけなく討ち取られます。
織田信長の後継者争いをめぐり、織田信長の臣下であった柴田勝家と秀吉が対立します。
もともとの織田信長の臣下としてのランクは秀吉より柴田勝家が上でしたが、織田信長の仇(明智光秀)をうったのは秀吉です。ここに、秀吉と柴田勝家の立場がにわかに逆転し、秀吉が優位にたちます。
しかし、織田信長の妹「お市」は柴田勝家の継室となります。
「お市」は秀吉が織田信長の後継者となることを快く思っていなかったのです。
「お市」に憧れていた秀吉は、非常に悔しがったと伝えられています。
「お市」が秀吉ではなく柴田勝家を選んだ、というのは秀吉にとって痛恨の極みでした。
1583年、秀吉(46歳)と柴田勝家(61歳)は織田信長の後継者争いで戦うことになります(賤ヶ岳の戦い)。
戦力ではあきらかに秀吉が有利でした。しかし柴田勝家についていた前田利家(44歳)が秀吉に寝返ります。これが勝負を決めました。
柴田勝家はこの寝返りについては了承しており、前田利家には、勝ち目のない戦いで自分について死ぬより、自分の代わりに生きて秀吉の暴走を抑えろと伝えていたようです。
戦いに敗れた柴田勝家は自害します。「お市」(36歳)も自害します。「お市」は、その身を秀吉に委ねることを拒否したのです。「お市」の3人の娘は秀吉にひきとられます。
秀吉に寝返った前田利家は、その後、加賀百万石の大大名となり、秀吉の暴走を抑える役割を担うことになります。
織田信長と同盟を結んでいた徳川家康は、この戦いではどちらにもつかず静観します。おそらく秀吉側が勝利すると読んで、その後の秀吉との戦いに備えていたと思われます。
1583年、秀吉は石山本願寺の跡地に大阪城を建設します。
1584年、織田家の家督をめぐる争いで、秀吉(47歳)と徳川家康(41歳)が戦います。しかし膠着状態となり引き分けに終わります。
1585年、秀吉は関白(天皇の補佐役)となります。秀吉は源氏系の武士でも平氏系の武士でもないため、征夷大将軍にはなれないといわれており、天皇を中心とする律令制、つまり朝廷官職のトップを目指したのです。
1586年、天正の大地震。秀吉は、徳川家康との和睦を考えるようになります。しかし徳川家康はなかなか和睦に応じませんでした。
1586年、秀吉は太政大臣(朝廷官職の最高位)になります。
1586年、秀吉は、自分の母を徳川家康の人質に出し、なんとかお願いして徳川家康を大阪に呼び出します。
秀吉は、大阪に宿泊中の徳川家康に密に会いに来て手をとり頭を伏して和睦、すなわち自分の家来になってくれるよう懇願しました。これにて徳川家康は秀吉の臣下となります。
1587年、秀吉は、関白の名において、日本中のあらゆる私闘を禁じる法令を施行します(惣無事令)。
これをもって戦国時代は終わったとされます(秀吉による天下統一)。
1587年、「お市」の3人娘のひとり、お初は、京極高継(富山)(浅井長政(滋賀)の妹の長男)の正室となります。
1587年、足利義昭(50歳)は京都に帰還し、秀吉の臣下となります。
1588年、足利義昭が公式に将軍職を辞し大名となります。その後、出家します。
1588年、「お市」の3人娘のひとり、茶々(淀、19歳)が、秀吉の側室となります。秀吉は、憧れの人「お市」の娘を側室としたわけです。
1590年、秀吉は、徳川家康に浜松から江戸(東京)に領地を移すよう命じます。徳川家康はこれに従いました。軍事力で秀吉に対抗するメリットよりも、江戸転封で得られるメリットが大きかったためです。軍事力増強のためには農民を領地から分離させることが必要でしたが、浜松にいてはそれが不可能だったのです。
1593年、茶々(淀) に豊臣秀頼が生まれます。
1595年、「お市」の3人娘のひとり、お江が、徳川秀忠(のちの江戸幕府第2代将軍)に嫁ぎます。
1598年、秀吉(61歳)が病没します。
1599年、前田利家(60歳)が病没します。
これで織田信長に仕えた有力な家臣は誰もいなくなりました。
すると幼弱な豊臣秀頼を支えるのは誰か?という問題が生じます。
織田信長の後継者として最も強く目されていたのは、織田信長の盟友である徳川家康です。徳川家康がリーダーとなって豊臣秀頼を支えるべきでしょうか?
しかし徳川家康は織田信長の盟友であって家臣ではありませんでした。徳川家康による豊臣家の乗っ取りもありえます。
では、石田三成ら豊臣の家臣が中心となって豊臣秀頼を支えるべきでしょうか?
再び戦乱の世に戻ってしまいそうな雰囲気でした。
豊臣家の内部も、茶々派(石田三成派)と、 寧々派(反石田三成派)に分裂していました。
このころから茶々(淀)は徳川家康と対立するようになります。茶々(淀)は自分の子、豊臣秀頼を秀吉の後継者、日本のリーダーとしたかったのです。
一方、寧々(北政所、高台院)は、次第に茶々(淀)とは距離をおくようになりました。その結果、徳川家康に与するようになります。寧々(北政所、高台院)と秀吉との間には子どもができなかったため寧々(北政所、高台院)にとって豊臣家の存続は重大な問題ではなかったかもしれません。そしてついに、
1600年、関ケ原の戦い。これは、茶々(淀、31歳)と寧々(北政所、高台院、51歳)の戦いでもありました。お初 (「お市」の3人娘のひとり)が嫁いでいた京極高継は徳川家康につきます。徳川家康(57歳)が勝利します。
1603年、徳川家康(60歳)は、征夷大将軍に任じられます(江戸幕府の開府、安土桃山時代の終焉)。
1603年、徳川秀忠(のちの江戸幕府第2代将軍)とお江(「お市」の3人娘のひとり)のあいだに生まれた長女、千姫(7歳)が豊臣秀頼(大阪)に嫁ぎます。 この婚姻は、秀吉が生前に徳川家康と交わしていた約束の実現でもありましたが、豊臣家とのつながりを保つことは徳川家康にとっても有益でした。
このころ、お初(「お市」の3人娘のひとり)は、茶々(淀)と豊臣秀頼(大阪)に厳罰が下らぬよう徳川家康との仲介に奔走します。
1604年、お江(「お市」の3人娘のひとり)に、徳川家光(のちの江戸幕府第3代将軍)が生まれます。
1605年、徳川家康(62歳)は、征夷大将軍の座を徳川秀忠(26歳)に譲ります。
1611年、徳川家康(68歳)は、豊臣秀頼(18歳)を自分の城によびつけて会見します。
この会見によって、形式上、豊臣秀頼は徳川の家臣となったとされます。
しかし成長した豊臣秀頼(大阪)には、織田信長と豊臣秀吉の血を引く強いカリスマ性があり、反徳川勢力の中核となりはじめます。
豊臣秀頼(大阪)を生かしていては日本がまとまらないと考えた徳川家康は大阪城攻めを決断します。
1615年、徳川家康に攻められた茶々(淀、46歳)は豊臣秀頼(23歳)とともに自害します(大坂夏の陣)。豊臣秀頼に嫁いでいた千姫(お江の娘、19歳)は徳川家康にひきとられます。
1616年、徳川家康(73歳)、病没します。大坂夏の陣があと1年遅かったらどうなっていたのでしょう?
1624年、秀吉の正室であった寧々(北政所、高台院、75歳)が死去します。
1626年、お江(53歳)が死去します。
1633年、お初(63歳)が死去します。
すざましい時代です。
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