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2018年8月 2日 (木)

「お市の方」と室町幕府の終焉

戦国時代No.1の美女といわれ、今の天皇の先祖にもあたる「お市」の壮絶な人生を通して、室町幕府の末期の歴史を語りたいと思います。


北川景子

足利義満(室町幕府第3代将軍)の時代には、日本は安定していました。

幕府は強く、それを守る守護大名の軍事力も強大で、幕府に反抗しようとする勢力は皆無だったのです。

しかし、外敵がいなくなれば内輪で揉めはじめます。いつの世でも同じです。

第4~5代将軍の時代になると、強大化した守護大名どうしが問題をおこし始めます。

すると、次第に守護大名の内輪もめ(とくに跡目争い、財産争い)の解決が不調に終わるようになります。

室町幕府の軍事経済力 ≒ 守護大名の軍事経済力

となり、守護大名をいさめる力が幕府から失わてしまったのです

守護大名に大きな力を与えすぎたことが幕府にとって裏目にでました。

そして、ついに守護大名同士の壮絶な争いが勃発します。

これが応仁の乱です。

この内乱は幕府を巻き込むみ1467年から11年も続きました。

争いの本質は、守護大名どうしの内輪もめです。幕府と大名の争いではありません。

守護大名は幕府の権威を利用し、自分の言い分を正当化しなければなりません。

しかし、幕府の権威が落ちてしまうと、幕府によるお墨付き、という正当性も失われてしまいます。

応仁の乱によって、幕府(将軍)の権威は失われました。そして、ついに

1493年、細川家(四国~大阪~京都)が幕府内でクーデターをおこし、自分たちの言うことをきかない第10代将軍を退任させます。

これにより幕府の管領職(将軍につぐ最高位)は、細川家がほぼ独占することになりました(細川政権)。

これが戦国時代の始まりです。

1494年、幕府で政治的実権(重要なポストの人事権など)を握った細川家(四国~大阪~京都)は、新しく第11代将軍を擁立します。

一方、応仁の乱で守護大名が京都に駆り出されている間、地方で留守を守っていた有力な家臣(いわゆる、戦国大名)が、今までのボス(守護大名)の地位を奪うようになります(下剋上)。

こうして地方では守護大名にかわって戦国大名による新たな地方政権が続々と誕生します。

この戦国大名の一人が、のちにでてくる織田信長です。

1508年、越中(富山)に身を引いていた第10代将軍が京都に進軍、第11代将軍を京都から追放します。こうして第10代将軍(2期目)が復帰します。しかし、

1521年、第10代将軍(2期目)は、またも細川家(四国~大阪~京都)によって追放されます。第12代将軍となったのは、第11代将軍の長男(11歳)でした。

1546年、細川家(四国~大阪~京都)と、その家臣である三好家(徳島)の対立が激化し、命の危険を感じた12代将軍は長男の足利義輝(後の第13代将軍)とともに京都を離れます。

1546年、第12代将軍は近江(滋賀)にて第13代足利義輝(10歳)に将軍職を譲ります。

1549年、細川家(四国~大阪~京都) が、その家臣である三好家(徳島)との抗争に敗れ地位を奪われます。これにより、四国~大阪~京都に広がる強大な三好政権が誕生します。

幕府(京都)の実権は三好家(徳島)が掌握しました。

一方、第13代将軍足利義輝は、細川家(四国~大阪~京都)と手を結び、三好政権と対立します。

1558年、三好政権は、細川家(四国~大阪~京都) を攻撃し没落させます。

第13代将軍足利義輝は三好政権と和睦し、近江(滋賀)から京都に復帰します。

このころ尾張(愛知)では、守護大名斯波家)の家臣であった織田信長が戦国大名となり、頭角を現します。

1560年、織田信長(愛知)は今川家(静岡)との戦いに勝利します(桶狭間の戦い)。

今川家(静岡)に人質となっていた徳川家康(浜松)は解放され、織田信長と同盟を結びます。

そういう時代背景を駆け抜けるように生きたのが織田信長の妹「お市」です。戦国時代No.1の美女と言われています(1547年頃の生まれといわれていますが、正確な生誕は不明です)。

はたして「お市」の人生は?

1561年、浅野(あさの)長政(茨木)の義理の妹、寧々(北政所、高台院)が秀吉の正室となります。

ときに勘違いされますが、浅野(あさの)長政(茨木)は、のちに「お市」が嫁ぐことになる浅井(あざい)長政(滋賀)とは違う人物です。

1564年、第13代将軍足利義輝が三好政権と対立するようになります。

1565年、織田信長が尾張(愛知)を統一します。「お市」が18歳のころです。

1565年、第13代将軍足利義輝(29歳)が三好政権によって殺害されます。このとき、後に15代将軍となる足利義昭も命を狙われましたが、越前(福井)の朝倉義景のもとに退避し難を逃れます。

この三好政権の暴挙には、多くの戦国大名が反発し、反三好勢力が形成されます。

第14代将軍職は、足利義栄(13代将軍足利義輝の従兄弟)と足利義昭(13代将軍足利義輝の弟)による後継者争いとなります。

三好家が推したのは足利義栄です。一方、反三好派は、朝倉義景(福井) のもとに身をひいていた足利義昭を推します。

1567年、朝倉義景(福井)と同盟している近江(滋賀)の浅井(あざい)長政に「お市」が嫁ぎます。「お市」20歳のときでした。

織田信長は、浅井(あざい)長政と同盟を結びます。

「お市」は、浅井(あざい)長政との間に、3人の娘、茶々(後に秀吉の側室となる、淀)、お初(後に京極高継の正室となる)、お江(後に江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の継室となる)をもうけます。

足利義昭は、朝倉義景の軍勢をたよって京都に戻り、第14代将軍に就こうとします。しかし朝倉義景はこの作戦に二の足をふみます。なぜなら京都への進軍は、三好政権との戦いを意味するためです。朝倉義景は三好家との争いに勝算を見出せませんでした。

そこで足利義昭は、織田信長を頼ります。

そうこうするうち・・・

1568年、三好家に担がれていた足利義栄が第14代将軍になります。

1568年、織田信長は、この第14代将軍就任に反抗の意を表し、ついに足利義昭とともに京都に進軍します。すると第14代将軍足利義栄はあっけなく病死してしまいます。

京都を制圧していた三好政権側の軍勢は、ほぼ戦わずして織田信長に京都を明け渡します。

1568年、足利義昭が室町幕府第15代将軍となります(室町幕府最後の将軍です)。

1569年、三好家は徳島に戻され、三好政権は崩壊、三好家は幕府の従属下におかれます。

1570年、織田信長は、朝倉義景と同盟を結ぼうとしますが、拒否されます。朝倉義景は、自分にかわって京都に上洛した織田信長の躍進を快く思っていませんでした。

1570年、織田信長は徳川家康とともに、朝倉義景を討伐する軍をあげます。

このとき「お市」の嫁ぎ先である浅井(あざい)長政は、織田信長と同盟を結んでいたにもかかわらず織田信長に反旗を翻します。

当初、織田信長はこの翻意をにわかには信じなかったようです。なぜなら、浅井(あざい)長政の正室は「お市」だったからです。

しかし、もともと浅井(あざい)長政と朝倉義景は同盟関係にあり、浅井(あざい)長政 は織田信長との同盟よりこちらを優先したのです。

織田信長はその後、3年間、朝倉義景、浅井(あざい)長政と戦うことになります(姉川の合戦など)。

浅井(あざい)長政に嫁いでいた「お市」の気持ちは複雑だったと思います。

1571年、朝倉義景(福井)、浅井(あざい)長政(滋賀)は、比叡山延暦寺(最澄によって建てられた天台宗の本山)の武装僧侶団を味方につけます。

1571年、一方、三好家(徳島)も石山本願寺(親鸞を宗祖とする浄土真宗の本山)の武装僧侶団と手を結び、信長打倒の機会をうかがいます。

このころの宗教組織は、独占したビジネス利権と、それを基盤とする大きな経済力をもとに最新の武器を大量に有し、いざとなれば利をめぐって大名と渡り合えるほどの強大な武装軍事組織と化していました。

1571年、朝倉義景、浅井(あざい)長政の軍勢を駐留させていた比叡山延暦寺が織田信長により焼き討ちにあいます。

ただし織田信長がターゲットとしたのは、僧侶と扮した武士、または武装した僧侶たちであって、宗教(天台宗)そのものではありません。

このころより、織田信長と足利義昭が対立するようになります。

1572年、武田信玄(山梨)が比叡山延暦寺を焼き討ちにした織田信長を凶徒とよび、同盟関係にある徳川家康(浜松)を攻めます。このとき命からがら敗走した徳川家康が恐怖のあまり逃亡中に失禁したという話は有名です。

武田信玄(山梨)が「打倒信長」の姿勢を明確にしたことで、武田信玄(山梨)、朝倉義景(福井)、浅井(あざい)長政(滋賀)、三好家(徳島)による反織田信長網が形成されます。

幕府は、織田信長につくか、反織田信長網につくかで判断を迫られます。

1573年、足利義昭はついに織田信長と袂を分かち挙兵。武田信玄(山梨)、朝倉義景(福井)、浅井(あざい)長政(滋賀)、三好家(徳島)、石山本願寺(の武装僧侶) に織田信長を討つよう命じます。

ところが・・・だれも動きませんでした。

武田信玄(山梨)は体調を崩していたのです。朝倉義景(福井)、浅井(あざい)長政(滋賀)もなぜか足利義昭の挙兵に応じませんでした。動く気配のない武田信玄(山梨)を信じてよいかどうか、内部分裂を起こしていたようなのです。

そうこうするうち・・・

1573年、武田信玄(山梨)が病死します。

すると、朝倉義景(福井)・浅井(あざい)長政(滋賀)連合軍からも次々と織田信長に離反するものがではじめます。 こうして反織田信長網は崩壊します。

1573年、足利義昭は、織田信長により京を追われ、失意のもとに広島に下ります(室町幕府の終焉、安土桃山時代の始まり)。

しかし、足利義昭は、広島から日本各地の大名(朝倉義景、浅井(あざい)長政、山口の毛利家や新潟の上杉謙信や武田家など)や石山本願寺に対し織田信長を討つよう命じ続けました。将軍職は続けていたのです。

1573年、朝倉義景(福井)は、織田信長に攻められ、自害します。

1573年、浅井(あざい)長政(滋賀)も織田信長に攻められ、自害します。浅井(あざい)長政に嫁いでいた「お市」と、その3人の娘は織田信長にひきとられます。

1573年、三好家(徳島)当主も織田信長に討たれ、三好家(徳島)は滅亡に向かいます。

1575年、武田家(山梨)が徳川家康(浜松)を攻めますが、織田信長・徳川家康(浜松)連合軍の反撃にあい逆に大打撃を被ります。こうして武田家(山梨)も滅亡に向かいます。

1576年、朝廷は、織田信長に右近衛大将の位を授けます。

1576年、織田信長は、京都に近い安土に絢爛豪華な安土城を築きます。

1577年、三好家が滅亡します。

1577年、朝廷は、織田信長に右大臣の位を授けます。

1578年、織田信長は、右大臣、右近衛大将の位を辞任します。この理由はよくわかっていません。織田信長が、天皇を中心とする律令制(朝廷から位を授かる制度)に疑問を抱いていたという説もあります。自分が皇帝となり、もっと安定した国家をつくろうとしていたという説もあります。

1578年、越後(新潟)の上杉謙信が病死します。

1580年、反織田信長網の一翼を担っていた石山本願寺が織田信長により焼き払われます。

以後、本願寺は西本願寺(のちに秀吉のサポートを受ける)と東本願寺(大谷派、のちに徳川家康のサポートを受ける)に分裂します。

強大な軍事力を有する宗教組織が、大名に対抗することによる政治的統治上の弊害は、織田信長でなくとも誰かが解決しなければならない問題だったのかもしれません。

1581年、朝廷は、織田信長に左大臣の位を推薦しましたが、織田信長は辞退します。

1582年、織田信長、徳川家康(浜松)連合軍が、武田家(山梨)を滅ぼします。

1582年、朝廷は、織田信長に征夷大将軍の位を授けることを内定します(三職推任)。しかし織田信長にはその決定が伝えられていませんでした。

足利義昭は、広島から日本各地の大名に対し織田信長を討つよう命じ続けました。

1582年、戦乱がいつまでも収束しない原因は、足利義昭にあるとみた織田信長は、ついに第15代将軍足利義昭を討伐することとします。ところが、

1582年、明智光秀(岐阜)の謀反により織田信長は追い込まれ自害します(本能寺の変)。この謀反の理由は、今も謎です。信長の革命思想を危惧したのでしょうか?足利義昭が関与した可能性は大きいです。朝廷内も織田信長支持派と反対派にわれていたかもしれません。反対派が明智光秀に働きかけていても不思議ではありません。

しかし、明智光秀に味方する人はいませんでした。織田信長が本当に討たれたのか不明であったためです。万が一、織田信長が生きていればと考えると誰も明智光秀には味方できません。

明智光秀は秀吉によりあっけなく討ち取られます。

織田信長の後継者争いをめぐり、織田信長の臣下であった柴田勝家と秀吉が対立します。

もともとのランクは柴田勝家が秀吉より上でしたが、織田信長の仇(明智光秀)をうったのは秀吉です。ここに、秀吉と柴田勝家の立場がにわかに逆転し、秀吉が優位にたちます。

ここで、織田信長の妹「お市」が柴田勝家の継室となります。

「お市」が秀吉ではなく柴田勝家を選んだ、というのは秀吉にとって痛恨の極みだったでしょう。

「お市」に憧れていた秀吉は、非常に悔しがったと伝えられています。

「お市」も、秀吉が後継者となることを快く思っていなかったに違いありません。

1583年、秀吉と柴田勝家は織田信長の後継者争いで戦うことになります(賤ヶ岳の戦い)。当初、柴田勝家についていた前田利家が秀吉側に翻り、これが勝負を決めました。

徳川家康は、この戦いではどちらにもつかず静観します。

秀吉に寝返った前田利家は、その後、加賀百万石の大大名となります。

戦いに敗れた柴田勝家は自害します。「お市」も自害します。「お市」の3人の娘は秀吉にひきとられます。「お市」は、その身を秀吉に委ねることを拒否したのでしょう。

1583年、秀吉は石山本願寺の跡地に大阪城を建設します。

1584年、織田家の家督をめぐる争いで、秀吉と徳川家康が戦います。

しかし膠着状態となります。

1585年、秀吉は関白になります。

1586年、天正の大地震。秀吉は戦闘的な考えを改め、徳川家康との和睦を考えるようになります。

1586年、秀吉は太政大臣になります。

1586年、秀吉は、徳川家康をなんとか大阪に呼び出し、大阪に宿泊中の徳川家康に密に会いに来て手をとり頭を伏して家来になってくれるようお願いしたそうです。これで徳川家康はようやく秀吉の家来となります。

1587年、秀吉は、関白の名において、日本中のあらゆる私闘を禁じる法令(惣無事令)を施行します。

これをもって1493年に始まった戦国時代は終わったとされます(秀吉による天下統一)。

1587年、「お市」の3人娘のひとり、お初は、京極高継(富山)の正室となります。

1587年、足利義昭は京都に帰還し、秀吉の臣下となります。

1588年、足利義昭は公式に将軍職を辞し大名となります。その後、出家します。

1588年、「お市」の3人娘のひとり、茶々(淀)が、秀吉の側室となります。秀吉は、憧れの人「お市」の娘を側室としたわけですね。

1590年、徳川家康は、浜松から江戸(東京)に領地を移されます。

1593年、茶々(淀) に豊臣秀頼が生まれます。

1595年、「お市」の3人娘のひとり、お江は、徳川秀忠(のちの江戸幕府第2代将軍)に嫁ぎます。

1598年、秀吉が病没します。

1599年、前田利家が病没します。これで織田信長の直接の家来はいなくなりました。織田信長の後継者は織田信長の盟友であった徳川家康のみとなりました。

1600年、関ケ原の戦い

1603年、徳川家康が征夷大将軍に任じられます(江戸幕府の開府、安土桃山時代の終焉)。

このころから、茶々(淀)は、徳川家康と対立するようになります。茶々(淀)は自分の子、豊臣秀頼を将軍としたかったのでしょう。お初は茶々(淀)と徳川家康の間を取り持つべく奔走します。 

1604年、お江に徳川家光(のちの江戸幕府第3代将軍)が生まれます。

1615年、茶々(淀)は、豊臣秀頼とともに自害します(大坂夏の陣)。

1624年、秀吉の正室であった寧々(北政所、高台院)が死去します。

1626年、お江が死去します。

1633年、お初が死去します。

 

すざましい時代です。

 

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