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この世で一番わかりやすい竹島問題の話

海外でもたま~に話題になる竹島問題。

痛切に思うのは、

竹島がどこの領土か

ということよりも、

韓国人がみ~んなこの問題に詳しいのに、日本人のほとんどが無知である・・・という悲惨な現実である(ノд・。)

領土問題は外交問題。

世論を味方につけたほうが有利になる。

韓国人のやり方は、草の根的な外交運動。

ひとりひとりが小さな外交官といってもいい。

学校やパーティーなど、人の集まるあらゆる機会を利用して、

人々に、竹島は韓国の領土だと主張していく。

日本にむかって直接主張することはそれほど多くない。

日本は韓国にむかってたびたび竹島の領有権を主張しているが、それ以外の活動が少なすぎる。

また、韓国人はどういうわけか、竹島問題に詳しい人が多い。

説得力があり、

発信力がある。

これはやっかいである。なぜなら、

日本人も、

「竹島は日本の領土である」

ということを、もっと世界中に発信しなければならないからだ。

くりかえすけれども、領土問題は外交問題。

世論を味方につけたほうが勝つ。

竹島問題なんか、私には無理。気になる人だけでやって!

と、黙っていると、自然に相手を利することになってしまう。

気をつけなければならないのは、韓国人との直接論争。

知識がないまま、韓国人と争ってはいけない。

テキトーな気持ちで議論すると、逆に論破されてしまう危険がある。

生半可な知識での論争は避けるべきだろう。

かと言って、議論をさけてばかりでは、これもまたダメ。

いずれにせよ。

韓国人たちが力強く自分たちの主張を世界に向けて発信している以上、日本人も強く発信しなくてはならない。

やっかいである。

それが、竹島問題のほんとうの難しさである。

この感覚・・・

ひとり気炎をあげている日本の外務省はとても愚鈍な気がする・・・

 

この記事では、竹島問題について日本の主張を記述するだけでなく、

韓国人の主張にどう対抗するべきかに主眼をおいて記述した。

一人でも多くの日本人が竹島について学び、ちいさな外交官として活躍することを願いつつ・・・

 

・‥…━━━☆

 

まず、

この問題をややこしくしているポイントがある。

そのポイントは次の3点にまとめられる。

1.竹島、鬱陵島(ウルルン島)、竹嶼(チュクド)、観音島(かんのん島)という4つの島が混同されやすいこと。

2.韓国と日本でそれぞれの島の呼称が異なること。

3.島の呼称が時代によって入れ替わったりしていること。

・‥…━━━☆

話をシンプルにするには図がいちばん。

この海域には、少なくとも4つの島がある。

それぞれを、下図のようにA島、B島、C島、D島とすると、

問題になっている島は、そのうちのD島(2島構成)であることがわかる。

Cocolog_oekaki_2017_05_03_22_50

実際の地図でみてみるとこんな感じ。

https://remedics.air-nifty.com/photos/hawaii/takeshima_4.png

隠岐の島よりの小さな島がD島である。

この記事では、混乱を避けるため、島の名前をつかわずに"D島問題"とする。

竹島問題とは、他の3島より遠く離れたD島の問題である。

 

まず、これを頭に叩き込む!!!

・‥…━━━☆

一応、A~D島について簡単に解説しておく・・・

A島:鬱陵島(ウルルン島)

一番大きな島で、紛らわしいことに、日本では昔、この島が竹島とよばれていた。

 

B島:竹嶼(チュクド)

鬱陵島(ウルルン島)の東側にある島。韓国では、現在、竹島ともよばれている。

 

C島:観音島

鬱陵島の北東にある岬のような島。

 

D島:竹島

この島は、上記3島群からは大きく南東に離れ、かなり日本に近いところにある。日本では昔、松島と呼ばれていた。韓国では現在、独島とよばれている。主に2つの島からなる。くりかえしになるが、竹島問題とは、このD島の問題である。

・‥…━━━☆

さて。

日本と韓国のどちらが先にD島を認識していたか・・・

つまり、

D島を地図に描いたり公文書に残したのはどちらが先か、

公的な支配を記録したのはどちらが先か、

というのが議論の核心である。

結論は、どちらも日本なのであるが、韓国も同様な主張をしているので、注意しないと論破される。

まず・・・

1145年に朝鮮で編纂された「三国史記」に、A島周辺に関する情報が初めてあらわれる。

「三国史記」によると・・・

この海域にはもともと于山国(ウザン国)という国があったらしい。

西暦512年、その于山国(ウザン国)は新羅(朝鮮)の支配下におかれたという。

韓国政府によると、この于山国(ウザン国)にはD島が含まれており、したがって、D島を最初に支配したのは朝鮮(新羅)であるという。

なるほど。

もし、当時の于山国(ウザン国)にD島が含まれていれば、そう言えるかもしれない。

しかし、当時の于山国(ウザン国)にD島が含まれたという証拠は「ない」。

韓国人に言わせると、そんなことは「アタリマエ」のことであるから証拠などないという。

なぜなら、D島の名前が于山島(ウザン島)だったからだそうだ。

于山島(ウザン島)とよばれていたD島が、于山国(ウザン国)とよばれる国に含まれてないはずがないだろう!・・・というわけである。

なるほど。

しかし、その「D島の名前が于山島(ウザン島)であった」という韓国の主張は、いわば韓国の仮説であって、以下に述べるように簡単には信じがたい。

まず第一に、于山国(ウザン国)とは、この海域で栄えた国である。当然、この海域で一番大きなA島を中心に栄えたはずである。

A島周囲の海域で栄えた国に、わざわざ無人の小島であるD島の名前を冠するだろうか???

非常に不自然である。

「三国史記」をよく読むと、「于山国(ウザン国)には、鬱陵島(ウルルン島)という"別名"がある・・・」と書いてある。

鬱陵島(ウルルン島)とはA島のことである。

A島の別名が鬱陵島(ウルルン島)である、とわざわざ書いているところをみると、A島には別の = "本名" = があったはずである。

ふつうに考えれば、そのA島の本名こそが于山島(ウザン島)であったと考えるべきではないだろうか?

だからこそ、A島の周囲に栄えた国が于山国(ウザン国)とよばれたと考えたほうが自然である。

このように「于山島(ウザン島) = D島」であるという韓国の主張はにわかには信じることができない。

したがって、「三国史記」にはD島に関する具体的な記載は一切みられないというのが日本の主張である。

このように、A島には2つの名前(于山人の呼び方である于山島(ウザン島)と、朝鮮人による呼び名の鬱陵島(ウルルン島))があったかもしれないという考え方は非常に重要である。

(なんだかんだいって韓国政府もこの考えを後になって認めているのであるから、韓国政府の主張にはこの点において一貫性がない)

 

663年、白村江の戦い

918年、高麗王朝成立(- 1392)

西暦1000年ごろ、于山国(ウザン国)は高麗王朝に支配されていたとされる。

1145年、「三国史記」(上記)編纂される。

1392年、李氏朝鮮王朝成立(- 1897)

 

1417年、海賊を恐れた李王朝政権がA島の住民をすべて朝鮮半島に連行し、A島を無人化したという記録がある。これを空島政策という。D島に関する記録はない。この空島政策は、1882年まで続く。

現韓国政府によると、この空島政策によって、A島の呼び名は、于山人による呼称であった于山島(ウザン島)から、朝鮮人による呼称である鬱陵島(ウルルン島)へと徐々に変化したという。

ん・・・?

つまり、韓国政府は、于山島(ウサン島)とはA島のことであると自ら認めており、ここにおいて「于山島(ウザン島) = D島」であるという自らの主張を否定していることになる。

(注:漢文を読めない韓国人のほとんどがこの点において韓国政府にだまされているともいえる。「于山島(ウザン島) = D島」というロジックでは絶対に日本を説得することはできないことに、韓国政府も気づいたようだ。万が一、韓国国民がこの韓国政府のおろかさに気がついたらクーデターでも起こすのではないかと心配になるほどである)

「三国史記」に書かれていることを要約すると、A島に興った于山国(ウザン国)が朝鮮に支配されたという記録である。そこにD島が含まれていたかどうかは記載されていないし、ましてや「于山島(ウザン島) = D島」かどうかについては、一切わからない、と結論できる。

1417年、朝鮮で編纂された「太宗実録」によって、于山島(ウザン島)がどういう島であるかが明らかになる。

「そこ(=于山島)には竹が生えて住居があり、人が住める」とある。

これである。

D島は岩石からなる島であり、竹はなく人も住めるはずがない。やはり、「于山島(ウザン島) = D島」ではない。

1451年、朝鮮の「高麗史」にも于山島(ウザン島)の記録がでてくる。

朝鮮半島の真東に、A島と于山島(ウザン島)の2つの島があるという。この2つの島が、むかし、于山国(ウザン国)とよばれたと記述されている。

韓国政府によると、この2つの島、A島と于山島(ウザン島)とはA島とD島のことであるという。

これは記述が漠然としているだけに否定するのは難しい。

しかし、前述の「太宗実録」によると、于山島(ウザン島)には「竹が生えて住居があり、人が住める」のである。D島が于山島(ウザン島)であるはずがない。

では、朝鮮半島の真東にあると記述された2つの島、A島と于山島(ウザン島)とは、一体、A島と何島なのか?

(やはり、A島とD島なのか・・・?どういうことなのか?)

実は ―――

当時の朝鮮政府は、A島が一つの島でなく、二島構成であると考えていたと解釈できる記述がいくつもある。

1481年、朝鮮で編纂された「東国輿地勝覧」に描かれた朝鮮の地図「八道総図」には、A島が東西に並列する二島構成として記載されている。

西側の島が于山島(ウザン島)、東側の島が鬱陵島(ウルルン島)である。

https://remedics.air-nifty.com/photos/hawaii/photo_4.jpg

「八道総図」

Wikipedia:ファイルより

「八道総図」にはいくつかの種類があり、鬱陵島(ウルルン島)が西側に、于山島(ウザン島)が東側に描かれているものもあるらしい(韓国政府による改ざん?)。

https://remedics.air-nifty.com/photos/hawaii/photo_6.gif

「八道総図」

外務省ホームページより

A島が二島構成でとして描かれたのは、A島が二つの名前を持っていたことが関係していると思われる。

A島から朝鮮に渡った人たちが「自分たちは于山島(ウザン島)から来た于山人である」と于山語で報告し、

朝鮮では、A島から渡ってきた人たちを鬱陵島(ウルルン島)から渡ってきた人たちと朝鮮語で記録する・・・

このように、2つの名前で記録されているうちに、朝鮮語である鬱陵島(ウルルン島)と、于山語である于山島(ウザン島)は、どちらもA島を指すにもかかわらず、A島自体が二島構成であると考えられるようになっても不思議ではない。

現在の韓国政府は、「八道総図」に描かれている2つの島は、A島とD島であると主張するが、日本政府は、この2つの島はA島を二島構成と勘違いした朝鮮政府の誤記、あるいは、A島とB島のペアと考える方が自然であると主張している。

結局・・・

「高麗史」の記述は「于山島(ウザン島) ≠ D島」とする日本の主張に何ら矛盾しない。また、当時の朝鮮がD島を支配していたという根拠にもならない。

ちなみに、後に朝鮮で描かれる地図には、鬱陵島(ウルルン島) = A島、于山島(ウザン島) = B島として描かれることになる。

空島政策(1417年)以降、A島は于山島(ウザン島)から鬱陵島(ウルルン島)へと呼び名がかわり、かわりにB島が于山島(ウザン島)とよばれるようになった、すなわち「高麗史」(1451年)のいう2つの島とはA島とB島なのかもしれない。

いずれにしても、「高麗史」にでてくる于山島(ウザン島)がD島であるとは認めがたい。

1530年、朝鮮で編纂された「新増東国輿地勝覧」には、「鬱陵島(ウルルン島)と于山島(ウザン島)は本来ひとつの島である」と記載されている。

この記述こそ、そのころまでA島がひとつの島ではなく2島構成であったと思われていた決定的証拠とは言えないだろうか。

つまり、鬱陵島(ウルルン島)と于山島(ウザン島)はどちらもA島(本名と別名)であった、またはA島とB島であったと思われる。

そう考えると「高麗史」に出てくる2つの島はD島とは何の関係もなくなる。

A島の朝鮮本土側が朝鮮人により鬱陵島(ウルルン島)とよばれ、反対側(B島を含む)が于山島(ウザン島)とよばれていたのではないかという見解もある。

A島が二つの名前で呼ばれた記録がある以上、この当時の朝鮮人がD島を認識できていたのか、疑問である。

これまでの記録から、あるいはこの後にでてくる記録によっても、竹が生え人が住んでいたといわれる、朝鮮人の言う于山島(ウザン島)は、無人の岩石島であるD島とははまったく別の島であると考えざるをえない。

しかも・・・

後に朝鮮で描かれる地図には、鬱陵島(ウルルン島) = A島、于山島(ウザン島) = B島として描かれることになるが、これは、「于山島(ウザン島) ≠ D島」という日本の主張そのものである。

結局、「三国史記」の于山国には当然D島が含まれていたはず・・・という韓国政府の主張は、すべて「于山島(ウザン島) = D島」という仮説を信じる人にとってのみ正しく、もし「于山島(ウザン島) ≠ D島」であればすべて否定されてしまう。

すなわち、どちらが先にD島を記録したかという点において・・・

韓国政府は色々な書物によって于山島(ウザン島)の記録を持ち出してくるが、「于山島(ウザン島) ≠ D島」なのであるから、この時点までに朝鮮人(あるいは日本人)によって記述されたD島の記録はないというのが日本の見解である。

1592年と1597年、豊臣政権による朝鮮出兵をきっかけに、無人化しているA島に日本人が出入りするようになった。隠岐の島とA島を結ぶ航路上にあるD島は、当然、日本人によって認識されていたと思われるが、残念ながら記録としては残っていない。

 

さて・・・

話はここから、さらにややこしくなる。韓国人の大好きなヒーロー:安龍福(アン・ヨンボク)の登場である。

1603年、江戸幕府

1614年、A島の空島政策をとっていた李王朝は、A島に日本人が出入りしていることを知り、対馬藩に抗議したとの記録あり。D島に関する記述はでてこない。

1618年、江戸幕府は、米子の廻船業者(大谷甚吉・村川市兵衛)に対し、A島への渡航許可を発行。

江戸幕府がわざわざ渡航許可を発行したのは、江戸幕府がこの海域を外国であると認識していた証拠であると、韓国政府は主張する。しかし、D島に対する渡航許可は発行されていない。

1639年、日本、鎖国を開始

1667年、日本で編纂された「隠州視聴合記」に、「隠岐の島から北西に二日一夜行くとD島、さらに一日行くとA島である」と、はじめてD島に関する明快な記述があらわれる。

客観的にみて、これがD島の存在に関する、日韓を通じてはじめての確かな記録である。

これに対し、韓国政府は、A島から目視できるD島をわざわざ韓国が記述する必要がなかっただけだと反論している。

つまり、日本が「隠州視聴合記」でD島を記述したことは公的に認めている。

また、「隠州視聴合記」にはA島やD島が無人の島として紹介され、「この州」をもって日本の境界とするという国境に関する記述がある。韓国政府は、「この州」が指す国境は「隠岐の島」であると主張し、日本政府はA島やD島であると主張している。

ここは、読み方によっては「隠岐の島」が国境である(韓国側の主張)のように読めないこともない書き方がされている。

しかし、この記録は日本人と韓国人のどちらが先にD島を記述したかという点において価値があるのであって、この本の著者(私人)がどこを日本の国境として考えていたかは、国境に関する公式な見解とはいえない。また、日本の領海の外が、即、朝鮮領と考えることもできないため、この記録にもとづいて国境を論ずるのは無意味である。

しかも、日本はこの時期、鎖国中である。

鎖国中にもかかわらずA島へ渡海し漁をつづけていたということは、生活レベルにおいて、D島どころかA島が外国領であるという認識すらなかった、と考えるのが自然である。

1692年、A島に渡航した日本の漁師がA島において朝鮮人53人と遭遇し、トラブルになりかけるも回避。

1693年、A島に渡航した日本の漁師が、再びA島において朝鮮人40人と遭遇。日本漁師は、朝鮮人のうちの2人を日本に連行し、後に「竹島一件」とよばれる事件に発展する。

当時の日本人漁師が、A島を外国領だと認識していれば、鎖国の時代にA島にいた朝鮮人を幕府に連行するはずがない。

このとき連行された朝鮮人のうちの一人が後に韓国でヒーローになる安龍福(アン・ヨンボク)。

1693年、江戸幕府は、捉えた朝鮮人を丁重にもてなし、朝鮮政府に返す。

このとき安龍福(アン・ヨンボク)は、「鬱陵島(ウルルン島)と于山島(ウザン島)が朝鮮の領土であることを認めます」という言葉を江戸幕府からもらったと朝鮮政府に証言をしている(これでヒーローになっている)。

しかし、江戸幕府がどこの誰かもわからない相手にそんな証書を発行するはずがない。実際に江戸幕府がとった対応は、A島は日本の地方に属する島なので、朝鮮人は来ないようにして欲しいという朝鮮王朝に対する抗議である。この抗議は、江戸幕府が、A島の所属を日本と考えていた証拠とされる。

1695年、この抗議に対し李王朝は、A島は朝鮮に属する島なので日本人はA島に渡航するべきでないと、江戸幕府に反論している。

1696年、江戸幕府は、A島の帰属について鳥取藩へ事情を聴取し、鳥取藩より、A島もD島も鳥取藩には所属していないとの返事を受ける。この鳥取藩の返事を受け、江戸幕府は、その後、日本人のA島への渡航を禁止した。

現韓国政府は、この時の渡航禁止の対象にD島が含まれていたと主張する。また、この渡航禁止令によって、日本はA~D島のすべての領有を放棄したことになると主張している。

しかし、江戸幕府はD島への渡航については禁止も許可もしていない。D島の帰属についてもどのように判断したのかは一切記録に残っていない。

そもそも江戸幕府がD島を外国領と考えていればD島にも渡航禁止令をだしたはずであり、そうしなかったのはD島が日本に属すると考えていたからだと考えられる。

なお、江戸幕府は渡航を禁止したA島の領有に関しては一切言及していない。

1696年、安龍福(アン・ヨンボク)が日本へ密航し、ふたたび「鬱陵島(ウルルン島)と于山島(ウザン島)は朝鮮のものである」と幕府に直訴。その後、朝鮮に送還され、密航の罪にて流罪に処せられる。

このとき安龍福(アン・ヨンボク)が言った「鬱陵島(ウルルン島)と于山島(ウザン島)」が一体どの島をさすのかがたびたび問題になる。どうしてかというと、

現韓国政府は、安龍福(アン・ヨンボク)の「鬱陵島(ウルルン島)と于山島(ウザン島)」はA島とD島のことであったとし、今では安龍福(アン・ヨンボク)は、D島の領有権について日本に初めて抗議した英雄となっているからである。

しかし、鬱陵島(ウルルン島)がA島であるとしても、当時の朝鮮の地図にも文書にもD島の記録はなく、于山島(ウザン島)がD島であるという証拠はどこにもない。しかも、安龍福(アン・ヨンボク)は、于山島(ウザン島)はA島の北東にある島であると証言しており、D島の位置とは全くかけ離れている。むしろ、安龍福(アン・ヨンボク)のいう于山島(ウザン島)とはB島またはC島、と考えるほうが妥当である。

ちなみに、後に朝鮮で描かれる地図には、鬱陵島(ウルルン島)と于山島(ウザン島)がA島とB島として描かれている。

1723年、A島に住みつくようになっていた朝鮮人が、A島の周辺で日本の漁師とトラブルをおこす(竹島事件)。江戸幕府は、再度、日本人のA島への渡航を禁ずる。そのときの裁判記録によると、日本の漁師はD島へ向かったついでにA島の近くを通過しただけであると抗弁している。つまり、D島への渡航は自由であり禁止されていなかったことがわかる。

数々の記録から、江戸幕府は、A島の帰属は朝鮮にあるが、D島の帰属は日本にあると認識していたことが間接的にわかる。

そもそも・・・

幕府の記録、朝鮮の記録、当時のどの記録からみても、この当時の領有権のトラブルはどれもA島(〜せいぜいB島、C島)をめぐる問題であって、D島が問題になっているようにはみえないのである。

1724年ごろ、鳥取藩が作製した海図(竹嶋之図)に、D島の位置関係や島の構造が詳細に描かれる。

朝鮮にはこの時代にこれほど正確に描かれたD島の図はあらわれていない。

https://remedics.air-nifty.com/photos/hawaii/img02.jpg

鳥取藩による「竹嶋之図」

外務省ホームページより

このように、世界で初めてD島の構造を詳細に記録したのは日本人である。これはD島周辺を自由に利用していた(実効支配していた)日本人漁師にとっては当然のことで、A島周辺で朝鮮人とトラブルをおこさぬようにするためにもD島周辺の詳細な海図が必要だったのである。D島周辺が事実上日本の領土となっていたこと示す証拠でもある。

1775年、長久保赤水による日本の地図「日本輿地路程全図」にD島の位置(緯度経度)が正確に記載される。日本がD島の所在を把握していたという客観的な証拠である。

https://remedics.air-nifty.com/photos/hawaii/photo_7.jpg

「日本輿地路程全図」

Wikipedia:長久保赤水より

ちなみに、これが日韓を通じての初めてのD島の緯度経度すなわち地図への記載である。韓国政府は、この地図は私的なものであって公的なものではないと反論する。一方で、この地図に記載されたA島とD島が彩色されていないことから、当時の日本人は、A島もD島も日本に属していないと考えていた証拠であると主張する。

この地図の注釈には「隠州視聴合記」が引用されているが、民間人である長久保赤水がA島やD島を日本の領地であると考えていたかどうかは問題ではなく、重要なのは、世界で最初のD島の正確な地図への記載は日本人の手によってなされたという事実である。

1785年、日本の地図「三国通覧図説」に、于山島(ウザン島)が記載される。位置的にA島とB島であり、D島は描かれていないようにみえる。

https://remedics.air-nifty.com/photos/hawaii/photo_3.jpg

「三国通覧図説」

Wikipedia:竹島(島根県)より

韓国政府は、しかし、この于山島(ウザン島)はD島であり、配色からみて朝鮮の領土であるという。が、位置的には誰がどうみてもD島にはみえないだろう。

この地図にはD島は描かれていないというのが日本の主張であり、「于山島(ウザン島) ≠ D島」であるという日本の主張にかわりはない。

1787年、フランスの航海家によりA島がダジュレー島と命名される。

1789年、イギリスの探検家によりA島がアルゴノート島と命名される。

1834年、朝鮮の地図「鬱陵島図」に、下図のようなA島周辺の様子がようやく描かれる。

https://remedics.air-nifty.com/photos/hawaii/img27.gif

「鬱陵島図」

外務省ホームページより

この地図には、鬱陵島(ウルルン島)と于山島(ウザン島)が描かれている。

鬱陵島(ウルルン島)がA島であるとして、この于山島(ウザン島) は位置関係からどうみてみもD島にみえない。

「于山島(ウザン島) ≠ D島」であるという日本の主張に矛盾しない。

1840年、シーボルトは、欧州「日本図」を刊行。A島をアルゴノート島、D島をダジュレー島として表記した。

1849年、フランスの捕鯨船がD島をリアンクール島(Liancourt Rocks)とよんだ。その後、これが正式なD島の英語表記となっている。

1877年、明治政府の文書「太政官指令」に、A島と「外一島(もう一つの島)」は本邦とは関係のないものとの記録がでてくる。

韓国政府は、この「外一島」はD島のことであり、日本がA島とD島の領有を放棄していた証拠であると主張する。

D島が日本に所属しないと当時の日本政府が考えていたとすれば、これはその証拠になりうる書類である。しかも、そう読めないこともない。竹島は古来より日本の領土であるという日本の主張を真っ向から否定しかねない見解である。

しかし、この文書における「外一島」がどの島を指しているのか ――― これは不明である。特に、この頃に発行された地図には誤ってA島が2箇所(ダジュレー島およびアルゴノート島)に記載されるなど、多くの混乱がある。「外一島」が何を指すのか。ここは当時の太政官がどの地図を参照して「外一島」と判断したのかも含め、非常に慎重な判断が必要であり、それがわからない以上、「外一島」がD島を指すとは断定できない。

1880年、A島を開拓したいという日本人(民間人)の要望があり、日本政府によるA島〜D島の現地調査がおこなわれる。このときはじめてA島のすぐ東にB島が存在することがはっきりと確認される。

つまり、上記の「外一島」はB島であるとしてまったく矛盾はない。

D島=「竹島」と命名される(それまでは1667年のD島発見以来、松島とよんでいた)。

1882年、A島を調査した朝鮮は、日本人のA島への侵入を発見し、日本政府に抗議する。日本政府はA島への渡航禁止令を発行する。

朝鮮は、400年以上続けた空島政策を中止する。

1894年、日清戦争

1897年、李氏朝鮮は大韓帝国へ。

1899年、韓国の地図「大韓全図」に、A島が鬱陵島(ウルルン島)として描かれ、そのすぐ東側に于山島(ウザン島)が記載される。

https://remedics.air-nifty.com/photos/hawaii/img28.gif

「大韓全図」

外務省ホームページより

韓国は、この于山島(ウザン島)がD島であると主張するが、位置的にそうはみえない。この地図は東経131度で切れており、そのことからも、東経131度55分に存在するD島ではないと言える。

これほど正確な地図をかけるようになったにもかかわらず、当時の朝鮮はD島を自国の地図に記録していない、とうのが日本政府の主張である。

1900年、大韓帝国は、A島、B島、および石島の「3つの島」をあわせて、鬱島郡(ウルルン郡)とすると制定した。この3島を支配下におくという意味であるらしい。

現韓国政府によると、石島とはD島であり、韓国政府は、これがD島に関する日韓を通じて初めての公的な「支配」の記録であると主張する。

しかし、この海域には少なくとも4~5つの島があり、石島が何をさすのかは自明とはいえない。

そもそも大韓民国の地図にさえD島が記載されていないのであるから、石島がD島であるという根拠が存在しない。

3つを合わせて鬱島郡(ウルルン郡)とよぶ・・・というにはD島は離れすぎているのではないだろうか。

大韓帝国が鬱島郡(ウルルン郡)としたのはA~C島の3つであり、そこにD島は含まれていないと解釈できるというのが日本の見解。

もし、現韓国政府ががいうように、石島とはD島のつもりだ!

としても、その定義をあいまいにしたのは当時の大韓帝国の責任であり、日本の責任ではない。

しかも。

1907年に発行された「大韓新地志」には「鬱島郡(ウルルン郡)の行政地域は東経130度35分から45分までである」とある。

D島のある東経131度55分は、その行政区の外である。

100歩譲って・・・

太古の昔からD島の存在に気づいていた一部の朝鮮人(于山人)がいた・・・というのは本当かもしれない。

しかし、ぼーっとながめていた"なじみの島"というだけでは、その島を自分の領土だということはできないのである。

結局、朝鮮も日本も、この時点ではどちらも決定的な手を打てていないが、証拠はあきらかに日本に優勢である。

1904年、日露戦争

1905年2月22日、無主地であった「北緯37度9分30秒、東経131度55分、隠岐島から西北85カイリの距離にあるD島」に対し、明治政府が国際法にいう先占を正式な手続きをおこなった。この時点で、D島は島根県隠岐島の所管となる。

国際的には、この明治政府による先占がD島に対する決定的な証拠となっている。

なぜかというと、この時期、大韓民国は日本とよく揉めており、大韓民国は日本政府に対して、多数の照会や抗議を行なっている。にもかかわらず、このD島に対する日本の先占宣言に対して、当時の大韓帝国は、照会も抗議もしていないのである!

当時の大韓民国がこだわっていたのは、やはりA島(〜せいぜいB島、C島)をめぐる領有権であって、D島の日本先占には興味がなかったという決定的な証拠といえる。

1906年、大韓帝国は、D島を正式に命名。独島。

1910年、韓国併合

1914年 - 1918年、第一次世界大戦

1939年 - 1945年、第二次世界大戦

1946年、GHQによって、一時的に、A~D島に対する主権が保留になった。

1947年、サンフランシスコ講和条約の草案で、A~D島に対する主権はすべて韓国へ移行と記載される。

1949年、サンフランシスコ講和条約の草案で、日本はD島の領有権について抗議。この主張が認められた。

1950年、朝鮮戦争

1951年、サンフランシスコ講和条約の草案で、韓国李承晩政権は、D島を日本が放棄するように主張。同時に、韓国を戦勝国扱いにするように要望するも却下される。

アメリカ政府は、D島の帰属について、ワシントンで独自の調査を行った。

結果、朝鮮がD島を支配していたという根拠は見当たらないと結論され(ボッグスメモ)、国務次官ディーン・ラスクは、D島は日本の領土であると書簡で韓国に回答した(ラスク書簡)。

1951年9月1日、サンフランシスコ講和条約。D島は日本の領土として正式に認められた。

1952年、軍備力において日本を上回っていた韓国は、D島を韓国領内とする独自の軍事境界線(李承晩ライン)を暴力的に制定。ラインを超える日本の漁船を次々と拿捕。

1952年、日本政府、米国政府は、ともに李承晩ラインに抗議。

1952年、アメリカ政府が、D島周辺をGHQの軍事訓練領域にすることを要望し、日本政府がこれを許可。

1952年、上記決定に対し、韓国政府によるアメリカ政府への抗議。

1952年、韓国による抗議は認められないとの米政府による回答(ヤング書簡)。

1953年、突然、D島周辺で漁を行っていた日本の漁船が韓国軍に爆撃される(第一大邦丸事件)。

1954年、日本政府は、D島の帰属について、国際司法裁判所に提訴するよう提案するも、韓国側は、自分の自宅を裁判にかけるバカはいない、と拒否。

以後、武力による韓国の実効支配が続いていることは周知のとおり。

(*´-ω-`)・・・フゥ

<日本の外務省による韓国語のビデオ>

 

 

 

 

・‥…━━━☆

竹島問題のもっとも有効な解決方法は、日本人ひとりひとりが、

このような内容を世界中に発信することである。

このような外交問題は、どちらが正しいかということより、第三者つまり世論を味方につけたほうが勝つ。

わかりやすくいうと、英語版Wikipediaの内容を制したほうが勝ち・・・

かもしれない。

・‥…━━━☆おすすめ記事☆━━━…‥・

 

 

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